「自分の人生が母親に食べられる…」
産まれた直後から里親に育てられ、その後、実の母親と暮らすも、憧れていたのとはかけ離れた生活…。
それでも今、自分の経験をもとに里親制度の講演活動に笑顔で取り組んでいる人がいます。
HBC報道部3年目の宮下彩(みやした・あや)記者がお伝えします。
札幌でピラティスの教室を開いている、米田幸代(まいた・さちよ)さん・40歳。
ピラティスは、心と身体のバランスを保つことが目的のエクササイズです。
「一度きりの人生を楽しく歩んでいくためのお手伝いができたら」と思い、教室を開いたといいます。
米田さんは、ハキハキとした話し方と、ヒマワリのような明るく優しい笑顔が印象的な女性です。
初めて会う私に、笑顔と涙を交えて、これまでの歩みを語ってくれました。
米田さんは産まれた直後から里親に育てられ、里親の孫たちと一緒に暮らしていました。
「里親さんはとても優しくて、しつけをされても怒られたことはほとんどなかった。私はとにかく里親さんに悲しい思いをさせたくないと思って行動していました。だけど、里子は苗字が違うので、自分はここの家族ではないというのがわかっていたので、早く自分の親に会いたいと思っていました」
「里親」は、育てられない親の代わりに、一時的に家庭内で子どもを預かって養育する制度です。里親と子どもに法的な親子関係はなく、里親には里親手当てや養育費が自治体から支給されます。
一方、「養子縁組」は法的な親子関係を成立させる制度であり、養親が子の親権者となります。養子縁組が成立した家庭には、自治体などからの金銭的な支援はありません。
転機は小学4年生のとき。実の母親から「一緒に住まないか」と連絡がきます。
「心の底からうれしかった。やっと自分も本当の親と住めるんだと本当に希望を感じていた」
北海道で、実母との生活がスタートしました。
しかし、憧れていた生活は、想像とは全く違うものでした。
「実母は『お前が助けてくれないと死んじゃう』が口癖で、私は母を助けたくて、掃除・洗濯・母のお弁当作り、とにかく母を助けたいと思っていました。やってもやっても『ちゃんとやれ。なんで手を抜くんだ。お前はなんでズルばっかりするんだ』と言われ、さらに、私が寝ているとき、母が私の頭を踏みつけてくる。母が去ったあと、ばれないように布団をかぶって、口に布団をくわえ、泣き声がもれないように泣いていた」
当時、米田さんは学校でもいじめにあっていました。原因は実母でした。
「母は私の仲のいい友達の親に『お金を貸してほしい』とお願いしてまわっていたのです。私は友達から『さっちゃんとはもう遊ばないように親に言われている』『あなた貧乏なんでしょ』と言われ、物を投げられ、無視をされるようになりました」
憧れていた生活が絶望に変わり、学校でもいじめにあい、生きていてもつらい…。
ある日、実母から「一緒に死のう」と言われました。
その言葉に、米田さんは命を絶とうと決意し、母親と2人で川に入り自殺未遂までしたこともありました。
そして、14歳のときに、実母からこう言われます。
「幸代、高校に行かないでプロレスラーになってお母さんを助けてほしい」
「母はとにかくお金がなかったから、私に働いてほしかったんだと思う。私はこのまま一緒に暮らしていると、“自分の人生が母親に食べられる”と感じました」
そんなとき、里親が別れる前にかけてくれた、ある言葉を思い出しました。
「困ったときは、学校の先生に『施設に入りたい』と言いなさい」
14歳の少女が、実母と離れる決断をし、中学校の先生に「施設に入りたい」と言うのに、どれほどの勇気が必要だったでしょうか。
切実な少女の訴えを聞いた先生は「その言葉を待っていたよ」と、米田さんを優しく抱きしめてくれました。
北海道の秋が深まりつつある10月下旬、米田さんと私は、北広島市の児童養護施設「天使の園」を訪れました。米田さんが中学校の先生に「入りたい」と言った施設です。
「施設は、初めて入る場所なのに、家に帰ってきたときホッとする感覚があって、毎食ごはんが食べられて、お風呂に入れて、部屋もきれいで、『私、もう頑張らなくてもいいんだ』と安心した」
当時の写真には、施設の先生や子どもたちとともに、笑っている米田さんが写っています。
しかし、実母との生活でつらい日々を経験した米田さんは、自己肯定感が低く、強い疎外感を感じていました。心の奥まで深く傷ついていたのです。
「なんで私は悪いことをしていないのに、普通の家庭に生まれなかったのか、どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないのか。同世代の女の子たちはお金に困らず、食べたいものを食べて、着たいものを着て、おしゃれをしてうらやましい」
安心感は得たものの、集団生活に馴染むことができなかった米田さん。1人になりたくなったとき、いつも1台のピアノの前に座りました。
施設を再訪したとき、そのピアノがまだ残っていました。
「本当にあのとき頑張ったなって思い出しますね。あのときは、大人をあまり信頼できなかったので、安心できる場所を施設内で見つけて、自分の居場所を一生懸命作ろうとしていたと思う。もし当時の自分に声をかけられるのなら『ここまでよく頑張ったね。本当につらいことたくさんあったけど、よく頑張った』と言いたい」
記憶の底に眠っていたピアノに触れ、米田さんの目に涙があふれだします。
「もう弾けないと思うけど、試しに弾いてみる?」
当時よく弾いていたのは「エリーゼのために」。施設の先生に教えてもらった曲です。
今はもう小さくなったイスに座った米田さん。鍵盤蓋をおそるおそる押し上げ、数音叩くと、音程が外れました。「全然覚えてませんね」と、はじけるように明るく笑います。
自分の居場所を求め続けた少女時代。施設は「生きていくための大切な場所」となっていました。
米田さんは、実母との関係を絶つため北海道を離れ、名古屋の看護師を目指す専門学校に進学します。
施設の先生が泣きながら『幸代、お前は自分で生きていかなければならないから、必ず手に職をつけて頑張っていきない』と言ってくれたのがきっかけでした。
自立のきっかけを作ってくれた先生には「今も感謝している」と話していました。
しかし、名古屋に引っ越してからも、実母からは電話がかかってきました。
⇒【「自分を苦しめるのは人だけど、助けてくれるのも人」愛されている実感をくれた里親たち】
文:HBC報道部・宮下彩
2020年5月に報道部に配属。記者歴3年目。警察・司法担当。学生取材に関心があり、これまで学生を主人公にした戦後企画や、警察担当として薄野交番の密着取材などの特集をしてきました。悩みは取材相手に感情移入し過ぎてしまうこと。月に映画を3本ほど見てリフレッシュ。
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