2024.02.05

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夢物語の世界に憧れた、孤独な王様の人生とは?現代人が共感できる「ファンタジー」としてのノイシュヴァンシュタイン城の魅力【後編】

理想と現実とのはざまで

ノイシュヴァンシュタイン城外観© DZT/ Hans Peter Merten

■ワーグナーに捧げる城

1867年6月、ルートヴィヒ2世はワーグナーのオペラ『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』の上演に備えるため、舞台となったヴァルトブルク城を訪れました。また同じ年の7月にパリ万博のついでにフランスのピエールフォン城を訪れ、ワーグナーのオペラの「『トリスタンとイゾルデ』の第一幕の最後を思わせるような」王城だったとコジマ(ワーグナーの後の妻)宛の手紙に書いています。

この頃から彼は、ワーグナーのオペラの世界を実感できるような城を建設し、そこに住みたいと思うようになり、前回の記事に書いた通り1868年5月にはその思いをワーグナーに手紙で打ち明けました。

ルートヴィヒ2世には幼少期を楽しく過ごしたホーエンシュヴァンガウ城があり、そこに白鳥の騎士の壁画なども飾られていたのですが、王母もまたその城によく滞在したので、自分だけの城を築きたいと考えるようになったのです。19世紀後半はヴァルトブルク城にしろ、ピエールフォン城にしろ、中世の城を再建して伝説の世界を蘇らせることが流行した歴史主義建築の時代でした。

1868年2月29日に祖父で元国王のルートヴィヒ1世が亡くなると、彼に割り当てられていた王室費(年間50万グルデン)が丸々使えるようになり、ルートヴィヒ2世はかねてからの築城の夢を実行に移すことにしました。まず、ワーグナーのオペラの劇場画家に城のデザインを描かせました。念頭にあったのは、ローエングリン等に登場する「聖杯の城」のイメージでした。

「疲れた生活」からの逃避~想像の世界へ

■太陽王に捧げる城

1867年7月にルートヴィヒ2世はナポレオン3世の招きでテュイルリー宮殿やコンピエーニュ宮殿を見学すると、歴史書で読んだルイ14世や15世の物語が蘇り、自分も「太陽王の宮殿」を建設したいと思うようになりました。そして1868年11月28日付の手紙で宮廷秘書官に次のように書いています。

「ルイ14世は、華麗なヴェルサイユ宮殿で延々と強要される単調な宮廷儀礼や疲れた生活から解放されるため、安らぐトリアノン宮殿を建造した。そしてそこもまた宮殿らしく拡張されてしまうと、公務に疲れた後に一息つくため、こじんまりとしたマルリー宮殿を建造した。余もまたリンダーホーフに建てられた礼拝堂の近くに小さな東屋を建てたい」。「小さな東屋」と言いながら構想は膨らみ、ブルボン朝の宮殿を思わせるリンダーホーフ城の建造が1874年に、ヴェルサイユ宮殿をモデルにしたヘレンキームゼー城の建造が1878年に始まりました。

リンダ―ホーフ城外観© Satoru OHATA

リンダーホーフ城の玄関にはルイ14世の騎馬像があり、ルートヴィヒ2世はそれにお辞儀していたと伝えられるので、この宮殿が太陽王に捧げられた宮殿であることは明白です。そして建造の理由として挙げているのが、「単調な宮廷儀礼」、「疲れた生活」、「公務の疲れ」ですから、太陽王のように偉大な王でありたいという願望とともに 「疲れた生活」から逃避したい という願望が透けて見えます。

ルートヴィヒ2世を間近に見た見習い料理人の回想録によれば、
王はいつもおひとりで食事されたにもかかわらず、4人分の料理が用意されなければならなかった。・・・王はポンパドール夫人、マントノン夫人、デュ・バリー夫人ら、フランスの模範とした人々の輪の中で乾杯し、歓談に興じ、その想像の世界に入り浸っている、と聞いた」そうです。

ルイ14世、15世の愛妾達との想像上の飲み会は、自身が太陽王であるかのように感じられ、夢のようなひと時だったことでしょう。現代風に考えれば、お酒を飲みながらアニメや映画を見てその主人公の気分に浸る行為に近いと言えます。

リンダーホーフ城の食堂と魔法のテーブル© Bayerische Schlösserverwaltung, Tanja Mayr/Rainer Herrmann, München

Sitakke編集部

Sitakke編集部やパートナークリエイターによる独自記事をお届け。日常生活のお役立ち情報から、ホッと一息つきたいときのコラム記事など、北海道の女性の暮らしにそっと寄り添う情報をお届けできたらと思っています。

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