2024.02.05
出かける1864年3月10日、父王マクシミリアン2世が急死し、大学在学中だったルートヴィヒ2世は18歳の若さでバイエルン国王に即位しなければならなくなりました。ほとんど何の政治経験や知識もなしに一国の最高権力者の役目を果たさなければならなくなったのです。
そして即位後すぐに取り掛かったのが、あろうことか、借金取りに追われていたワーグナーの保護でした。その年の5月4日に王都で対面を果たすと、気前よく彼に住居と生活費を与え、オペラの制作資金を提供したのです。国王即位後初の自発的な取り組みが、浪費家で革命関与の疑いのあった芸術家の保護でしたから、内閣をはじめ政治家たちは良く思わず、ワーグナーへの反感は募るばかりでした。
そして翌1865年12月10日、内閣からの圧力で、ワーグナーは王都ミュンヘンからスイスに追われることになったのです。この事件はワーグナーを庇護するつもりだったルートヴィヒ2世にはまことに苦い挫折体験となりました。最高権力者の国王と言えど、内閣の圧力には逆らい難かったのです。
この時すでに、ルートヴィヒ2世の悲劇の人生は幕を開けていました。
1866年5月、風雲急を告げていたプロイセンとオーストリア間の戦争に際し、初めは参戦を渋っていたルートヴィヒ2世も内閣の圧力で動員令に署名せざるを得なくなり、嫌々オーストリア側に参戦しました。両陣営に親類がいるドイツの内戦を前に、ルートヴィヒ2世は「地獄の苦しみを感じ」、「退位してしまいたい」とワーグナー宛ての手紙で弱音を吐いています。
戦争の結果はオーストリア軍・バイエルン軍の完敗に終わり、バイエルンは辛くもプロイセンとの講和を結ぶことになりました。バイエルン王国の独立こそ保つことができたものの、3000万グルデンの賠償金と、戦時はバイエルン軍がプロイセン軍の指揮下に入るという秘密同盟を結ばされました。バイエルンは事実上、戦時の兵権を失ったのです。
1870年7月、今度はプロイセンとフランスが戦争することになり、バイエルン軍は密約通りプロイセン側に参戦して勝利しました。ところがドイツ帝国を建国したいプロイセンの意向で、ルートヴィヒ2世はプロイセン王をドイツ皇帝に推戴する書状を書かされることになりました。結果、バイエルン王国は一定の自治権を保持できたものの、ドイツ帝国の一部に組み込まれることになったのです。
プロイセン王=ドイツ皇帝の軍門に下るような事態に、ルートヴィヒ2世は弟に次のような心情を吐露しています。
「驚くべきことに、戦争や条約締結等があった昨年以来、統治も人々も私にとって忌まわしいものになりました。ところが、王位や君主の職は地上で最も美しいもの、気高いものとされます。何もかもが台無しになる時代に生まれたことが私には苦痛で仕方ありません」。
王として気高くありたい、けれど現実には困難な政治状況にさらされるのが苦痛で、崇高な統治が忌まわしく感じられることを正直に告白しています。
理想とした勇敢な白鳥の騎士=救国の英雄とは異なる体たらくに、ルートヴィヒ2世は次第に耐えられなくなっていったのです。