2024.01.15

出かける

『ゴールデンカムイ』で鯉登少尉が食べた“月寒あんぱん”って、時代設定あってるの?担当者さんに話を聞いてみた【前編】

月寒あんぱんの成り立ち ~簡略バージョン~

伊藤常務
「月寒あんぱんの歴史は、明治7年ごろにさかのぼります。当時、札幌の月寒村には、第七師団 陸軍歩兵隊第25連隊の本部が置かれていました。そこを拠点に、陸軍にお菓子を製造販売していた大沼甚三郎という人物がいました

「ある日、大沼甚三郎は、東京にある「木村屋」というお店がつくった『桜あんぱん』が現地で大ヒットしているというウワサを耳にします。大沼甚三郎は、『うちも大ヒットするあんぱんを作ろう!』と思い立ち、自分なりのあんぱんを作ることにしたらしいんです」

イメージ(筆者作成)

「当時の木村屋のあんぱんは、現代のあんぱんに近いものだったらしいのですが、大沼甚三郎は、木村屋のあんぱんを食べたことがないので、パンのように生地を発酵させるような工程があることも知らず…伝聞をもとに想像でつくったそうです。小麦を練って、あんこをくるんで...『よし!これで俺たちのあんぱんができたぞ!』と。完成したのが『月寒あんぱん』なのです」

「そして、大沼甚三郎から、月寒あんぱんの作り方を指南された一人に、本間与三郎という人物がいます。この人物こそが、弊社『月寒あんぱん本舗ほんま』の創業者です。本間与三郎は、明治39年に個人創業を始め、月寒あんぱんの製造販売をスタートさせました」

「明治44年には、地元の陸軍歩兵第25連隊と住民が協力して、平岸から月寒まで抜ける道路を作ったのですが、そこでは軍に毎日ひとり5個ずつ、月寒あんぱんを提供するなどもしていました。あんぱんはエネルギーたっぷりですからね!」

明治44年ごろの『アンパン通り』。(画像提供:月寒あんぱん本舗ほんま)

「完成した道路は、愛称を込めて『アンパン通り』なんて呼ばれるようになり、昭和になってから記念碑も建てられました」

昭和17年頃の工場のようす。画面左側の赤ちゃんが、現社長・本間幹英さんのお父さんとのこと!(画像提供:月寒あんぱん本舗ほんま)

結論:明治33年ごろに鯉登少尉が『月寒あんぱん』を食べたことは、時代考証的に”アリ”だった!

「ですので、ナベ子さん。結論を申し上げます。明治33年ごろ、鯉登さん(当時14歳)が月寒あんぱんを食べたというのは、時代考証的にはおかしくないのです!創業したのは明治39年ですが、明治7年頃から、月寒あんぱんは存在していたのですから!」

結論:明治33年(鯉登少尉が14歳のころ)には、すでに月寒あんぱんは存在していた!

“作品の時代考証がおかしいのでは?”という、筆者・ナベ子の仮説は見事に大外れ!

伊藤常務「実はですね、いま『復刻版』として売り出している商品は、当時(明治)のものと、製法も中身もサイズもほとんど同じなんですよ」

私「つまり…これを食べると、鯉登少尉や鶴見中尉が実際に口にしたものと、同じものを味わえるということですね!?」

伊藤常務「ちなみに、ゴールデンカムイとのコラボ商品では、キャラクターによって『こしあん』や『抹茶』など、異なる味をご用意しています。サイズは一回り小さいですが、『復刻版』の味には、もちろん、鯉登さんのパッケージを選びましたよ!」

私「キエエ(猿叫)」

©野田サトル/集英社・ゴールデンカムイ製作委員会

伊藤常務が手に持っている右が『復刻版』。左の鯉登少尉デザインが、一回り小さい『復刻版』です。

Sitakke編集部

Sitakke編集部やパートナークリエイターによる独自記事をお届け。日常生活のお役立ち情報から、ホッと一息つきたいときのコラム記事など、北海道の女性の暮らしにそっと寄り添う情報をお届けできたらと思っています。

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