2022.12.12
深める「コロナもそうだけど、自分の力じゃどうにもならないことって世の中にたくさんあると思うんですよね」
ずっと続けたいと思っていた仕事を、泣く泣く断念。
それから2年、長年住み慣れた場所から離れた北海道・知床に拠点を作り、「豊かな人生」を紡いでいる人がいます。
伊藤かおりさん。
夫の彰浩さんと一緒に、斜里町ウトロで、「coffee albireo (コーヒー・アルビレオ)」というカフェを営んでいます。
「ひぐま」「ももんが」「ケイマフリ」…北海道の動物たちの名前を付けた、こだわりのコーヒーは、パッケージもかわいい。
そのコーヒーにぴったりなのが、自家製カヌレ。
かおりさんがカヌレが好きで、店で出したいと言ったところ、料理が得意な彰浩さんが、外はしっかり食感、中はもっちり柔らかな理想の味を作り上げました。
斜里町産の小麦を使ったパンのトーストは、知床産スモークサーモンたっぷりの観光客にも嬉しい「サーモンオニオントースト」に、こだわって仕入れた“生の胡椒”が効いた「チーズペッパートースト」など、種類豊富。
旅の合間の小休憩にも、地元の人がゆっくり時間を過ごすにも、居心地のよい空間です。
店内には、動物たちの写真がずらり。
彰浩さんは、動物写真家なのです。かおりさんはアシスタントを務めながら、隣で動画を撮影。「Photograph albireo」というユニット名で、日本で生きる野生動物を紹介しています。
4月から10月はカフェを営業しながら知床の自然を見つめ、冬の間はカフェをお休みして、場所を問わず撮影や発信をしています。映像事業、カフェの経営のほか、地域貢献も仕事の柱としていて、東京の小学校で知床のクマについての授業をすることもあります。
かおりさんは神奈川出身、彰浩さんは東京出身。なぜ、知床でカフェを営みながら撮影をしているのか、かおりさんの人生をさかのぼって聞くと、自分だけではどうにもならないこともある世の中で、視点を変えて生きていくヒントが見えてきました。
多様な生き方連載「こう生きたっていい」
【この記事の内容】
・自然の恩恵を受けることを体感…写真で記録する
・ずっと働きたかったけれど…夫婦そろって退職
・写真と言葉を通して、伝えたいこと
・自分だけではどうにもならないことがある。でも…
かおりさんが自然に興味を持ったきっかけは、小学生の頃。ガールスカウトに参加して楽しかった思い出が原点になり、高校でワンダーフォーゲル部に所属しました。本格的な部活で、「地図とコンパスだけで山を歩く術」「一日の工程に必要なカロリーを計算して食事を考える術」など、自然の中で生きる方法を学びました。技術だけでなく、「自然の恩恵を受ける」ということを、体感したといいます。
「当時道具も進化してなくて、夜、テントの中で眠るときに、新聞紙を背中に入れて暖を取ることもありました。夜の冷え込みを痛感するからこそ、日が昇ったときの太陽の恵みに感謝できるんですよね」
実は当時、修学旅行で初めて北海道に来ていたものの、自然には触れなかったのか、それほど印象に残っていないそう。「お寿司屋さんに背伸びして入って、高校生なりに値段を計算しながら食べたんですけど、メニューに書いてあるのは一貫分の値段で、実際に出てくるのは二貫ずつ。お会計が予想の倍になっちゃって」と、笑いながら振り返ります。北海道に住みたい…なんて、考えてもいませんでした。
高校卒業後は、家族の引っ越しに合わせて神戸の大学に進学。「ずっと働けるようになりたくて、理学部物理学科を選びました。女性でも技術があれば一生働けるかなと思って」と話します。
就職は関東の精密機器メーカーの開発部門。夫の彰浩さんもこの会社に勤めていました。
カメラの部品づくりにも関わることになり、ユーザーの視点を知るべきだと思い、撮影を始めました。子どもの頃から写真を学んでいた彰浩さんに教えてもらうようになり、全国いろいろなところに連れて行ってもらったといいます。
その中で、北海道の自然にも触れました。釧路湿原や、知床のサケマスの遡上、流氷…自然現象に心を動かされ、「同じ国の中でも南と北で生きている動物が違う、季節も変わるということに興味を持ったんです。いまの自然環境をできる限り記録として残して、子どもたち・次の世代に伝えていきたいと思いました」と話します。
沖縄や奄美大島など、全国各地をまわる中で、知床には年に3回は通い、地元の人と話す機会も増え、縁がつながっていきました。
会社の仕事と、撮影と。その生活の中で、彰浩さんの親の介護が必要になる時期が来ました。
当時は、今よりも共働き世帯が少なく、介護休暇制度も充実していませんでした。かおりさんの職場でも女性の技術者はほとんどいなかったため、「両親の介護を妻に任せる男性って多いと思っていた」といいます。
ただ、彰浩さんはかおりさんに「仕事を辞めて」ということはなかったといいます。それがありがたかった、と振り返っていました。
2人は、仕事や介護をしながらも、撮影の時間も大切にしようと決めました。
「介護は自分だけではコントロールできないので、もちろん優先。写真を撮るための予定は、何かあったときはキャンセルすること覚悟で入れていました。でも、自分の人生の時間の中に、少しでもやりたいことを残していないとつらくなっちゃうよねと、主人と話していたんです」
かおりさんは、会社の仕事も大切にしていて、「ずっと働きたいと思っていた」といいます。
しかし、体を壊してしまいました。
続けようとがんばりましたが、体調が優れず、泣く泣く断念。
退職し、体調の回復と介護に時間を使うつもりでしたが、退職日まであとわずかというときに、彰浩さんの親が亡くなってしまいました。
実は、彰浩さんも、かおりさんと同時に退職することを決めていました。
彰浩さんはもともと、50才を過ぎたら早期退職して、自分の生き方をしようと思っていたそうで、いいタイミングだからと一緒に退職したそう。
退職後の2018年、写真家として独立しました。
そして翌年、年をとってもできる仕事をという考えもあり、カフェをスタート。
知床を選んだのは、「野生動物と人の住んでいる場所が、近いどころか重なっている場所を、もっとしっかり見ていきたいと思った」からだといいます。
「何回来ても飽きることがないんですよね。同じ景色を見ることがなくて。同じ8月でも、上旬と下旬で景色がちがって、何度来ても見足りない気がしたんです」
住み始めてからはどうか訊ねると、「全然見足りない!」と即答。「動植物を包み込んでいる環境自体にすごく興味があるんです。どう毎年変化するかを、実感としてつかみ取りたい…まだまだ全然、学びが足りないと思います」
今回の取材のきっかけも、かおりさんの学びへの熱心さに惹かれたことでした。私がかおりさんに初めて出会ったのは、札幌で開かれたクマのフォーラム。勉強のために知床から札幌までやってきた、その熱心さに驚き、話を聞きたいと思いました。
「まだまだ学び足りない」と話す、かおりさんの目はキラキラしていました。その学びへの姿勢は、本にも表れています。
「世界遺産知床の自然と人とヒグマの暮らし」(少年写真新聞社)。おととし秋に出版された写真絵本で、彰浩さんの撮影した写真に、かおりさんが文章を添えています。
「出版社から依頼をいただいて、全国の子どもたちが対象だけど、大人も満足できるようにしてくださいって言われたんですよ。責任重大だなと思いました」
彰浩さんとかおりさんは、写真展を開催するとき、写真だけでなく、知床財団が作った啓発のはがきを置くなど、クマと人の現状を伝えようとしていました。そうした活動が、本につながったといいます。
写真で感じ取ってほしいという気持ちはもちろんありながらも、次のページをめくりたくなるような展開をつけようと、文章を添えることにしました。
「道外出身の人間が北海道の大事な生き物をメインとした本を出すことの責任を感じて、きちんと取材してきちんと伝えたいと思いました。地元の方が読んだときに違和感を感じない内容にしたいと思ったので、何回も通って、いろんな立場の人の話を聞くことに尽力しましたね」
本には、自然の中で生きる、クマの姿が映し出されています。でも、読み進めると、素晴らしい写真を見せるだけのための写真集ではないことがわかります。
クマの命を左右する、植物、魚、人…。あるクマのストーリーを追うなどの演出はつけずに、淡々と、知床の営みが描かれています。
「環境と、人と、動物がいて、複雑に絡みあって今があるということを伝えたかったんです。観光客も、地元の人も、なんらかの形で影響を与えていると、易しい言葉で伝えたかった。読んだ人がどう感じて、これからどんなふるまいをするかということに、影響や気づきを与えることができればと思っています」
人の努力も丁寧に取材した成果が詰まった本。映っているクマは、特定のクマではないのも、学びの表れです。クマの人慣れを進めないように、同じクマを追いかけたり、長時間見続けたりはしないように撮影しているといいます。
完成した本は、地元の自然ガイドやクマの研究者からも好評で嬉しかったと、ほっとした笑顔で話していました。
本当は、ずっと会社で働いていたかったというかおりさん。その生き方を断念して、想像もしていなかった道に進んだ今をどう思っているか、聞きました。
「生きている間に、また全然ちがう感覚を受けることができたかなと思っています。こんなに自然が迫ってくる環境に身を置いたことがなかったので、今まで以上に季節を感じることができますし、カフェのお客様として地元の人も観光客も世界各国の人も来て、出会う人の数が格段に増えました。職種を超えていろんな人と話ができて、自分で考えることが増えましたね」
これからの目標を訊ねると、「あんまり考えてない」と笑いながらも、また目を輝かせました。
「もっと勉強したいなって思います。いまリアルな教材が目の前に広がっているので、雑草と呼ばれるものひとつとっても調べることたくさんあるんですよ。ひとつひとつ時間をかけて、小さい発見でもいいから積み重なっていくと、豊かな人生って言えるのかなって思う」
「コロナもそうだけど、自分の力じゃどうにもならないことって世の中にたくさんあると思うんですよね。本当に疲れてダメだってなる前に、まわりに助けを求めたり、旅に出て視点を変える時間を、みんなが持てるといいのかなって思うんです。誰かが生きる上で、ほっとしたりとか、あしたもがんばろうかなとか、そのきっかけのひとつに、私たちが作りあげるものがなれたらいいなって」
自分だけではどうにもならないこともあれば、確実に誰かや何かに影響を与えている私たち。どうにもならないことを受け入れながらも、どう自分の人生を豊かにするか。自然や動物、人に与える影響を、少しでもいいものにするにはどうしたらいいか。
かおりさんには、学び続けて、自分で考えて選ぶことの大切さを、教えてもらいました。
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coffee albireo
・斜里町 ウトロ東14 ファミリーショップささき2階
・営業:4月下旬から10月末の金曜〜月曜、午前11時から午後5時(L.O.午後4時半)
※11月から4月中旬は冬期休業中
・ドリップパックや、2023年の写真カレンダーは、休業中も道の駅などで販売中。いずれもカフェのオンラインショップでも買うことができます。
詳細はホームページでご確認ください
多様な生き方連載「こう生きたっていい」
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■ 「生きやすいように生きた」男性の体に生まれて、女性になるまで。今、願うこと
■クマがサケマスを食べる…札幌の住宅地でも?知床の「楽しい解決策」から考える
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