2024.10.17

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あの日父が死んだ「人生が終わった…恨んだ」“史上最悪の海難事故”を語り継ぐ今

台風が大火につながった

9月、北海道後志地方の岩内町で消防演習が行われました。
岩内町において火災への備えは特別な意味を持ちます。

70年前の9月26日、マチの8割が消失した岩内大火が起きました。

火の手が広がったのは洞爺丸台風が原因です。

当時高校1年生だった阿久津英一さんと中学1年生だった丸山誠一さん。
2人が逃げ込んだ蔵が今も残っています。

中には約80人の避難者がいました。

「窓から見たら火の海だった。すごく印象深いし恐怖心はいまでも忘れられない」

蔵の中では、ある工夫によって全員の命が助かりました。

「換気口を閉めて、味噌を詰めたんです。家の中の戸にみんな入ったあと、味噌で全部固めて。味噌は焼けても乾かないから」

味噌で窓を塞ぎ、煙や炎が入ってくるのを防いだのです。

1954年、火災の翌日に撮影された映像には、ほとんどの家屋が焼け落ち、焼け跡の中にある火種がなおも燃えているようすが記録されています。

町全体では1万7223人が被災、死者・行方不明者が38人という大きな被害が出ました。

町の郷土館では岩内大火を伝える品々が展示されています。

岩内大火から、町は災害に強い町づくりを掲げて、わずか3年で復興。
この奇跡は「岩内魂」と呼ばれています。

ただ、この岩内大火を知っている人もどんどんといなくなりマチの一部からは「それでいいのかな…」と声があがったといいます。

岩内大火は町の被災の歴史であり、そこからの復興は町の誇り…。

岩内町は、今年60年ぶりに式典を開催しました。
約350人が集まり、被災者や殉職した消防団員への黙とうや献花を行いました。

岩内町の木村清彦町長は「みんなで『なにくそ』と頑張って、はねのける雰囲気がこの町の住民の持っているパワー。それを総称して『岩内魂』と言っている」と胸を張りました。

70年前に起きた悲しい災害。

それは、先人たちが必死に生きようとした証であり、今の暮らしはその犠牲と努力の上にある事を忘れてはいけません。

岩内町が火災から復興したときには、全国各地から救援物資などの支援を受けたといいます。
そのため2011年の東日本大震災、今年の能登半島沖地震などのときにも、岩内町は色々な救援物資を支援したり、町営住宅を提供したりしています。

一方、洞爺丸台風から33年後の1988年には、青函トンネルが完成。
トンネルにはいま、新幹線が走っています。

私たちの暮らしはより便利に進化していますが、これももとをたどれば、洞爺丸台風がきっかけ。

昭和の出来事は、年々歴史の一部になっていきます。
改めて次の世代に引き継いでいくこと、将来に向けた備えをそこから学んでいくことは今を生きている私たちの責任だと思います。

文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部あい

※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2024年9月26日)の情報に基づきます。

Sitakke編集部

Sitakke編集部やパートナークリエイターによる独自記事をお届け。日常生活のお役立ち情報から、ホッと一息つきたいときのコラム記事など、北海道の女性の暮らしにそっと寄り添う情報をお届けできたらと思っています。

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