2023.09.08
暮らす雲の後ろから覗いた、穏やかな日差し。
2020年1月1日。胆振の厚真町です。
「写真撮れた。ふふ。望むのは、みんなが笑顔になっていくことだね、もちろん」
仮設住宅から空を眺めていたのは、山口清光(やまぐち・きよみつ)さん。
厚真町は、2018年9月6日の胆振東部地震で、最大震度7に見舞われました。
大規模な土砂崩れで36人が死亡。
そして地震から12日後、清光さんの妻・サダ子さんが、助かったはずの命を「災害関連死」で落としました。
大切な人や家を失ってから、2度目の年明け。
「そんな簡単にはもとには戻らない。また頑張ります」と言い残し、清光さんは仮設住宅の中へと戻っていきました。
胆振東部地震から5年。当時からの取材を、改めて振り返ります。
あの日、清光さんとサダ子さんに何があったのかは初回の記事で、その後「遺族」にもなれずに葛藤してきた清光さんの日々は前回の記事でご紹介しました。
この記事は第3回目です。
胆振東部地震から、1年半。
道路や農地の復旧が進む一方、厚真町の仮設住宅は、シンと静まっていました。
談話室には、体操教室など、イベントの中止を知らせる紙が貼ってありました。
毎週開かれていた体操教室。
住民の憩いの場で、健康を保つための大切な時間でもありました。
中止は2月末から。理由は、新型コロナウイルスの感染拡大です。
清光さんは、体操教室を楽しみにしていました。
「談話室で毎週やってたから、寂しいですよ」
清光さんが暮らす仮設住宅は、退去の期限が10月末に迫っていました。
不安を抱える住民の話を聞くのは、社会福祉協議会の相談員ですが、ここにも新型コロナウイルスの影響が出ました。
面会での相談を中止し、手紙と電話での対応になったのです。
相談員は、住民に直接寄り添えないもどかしさに心を痛めていました。
「住み慣れたところから離れるのは気持ちが重いと思う。互いに涙を流しながら話すこともあった」
電話越しに励まし合いながら日々を乗り越え、談話室に日常の風景が復活したのは、2020年6月。
検温やマスク着用など感染予防に注意しながら、仮設住宅の住民限定で行う条件で、体操教室が再開しました。
参加者は、「体がボッコみたいになってたから、再開して良かったですよ」「やっと先生の顔を見ながら体操ができて、こんなうれしいことはない」と話していました。
胆振東部地震から2年。
仮設住宅は、退去期限が翌月に迫り、空室が増えました。
清光さんが常に玄関に置いているのは、非常用のリュックサック。
乾パンや携帯トイレが入っています。
「ほれかっこいいでしょ。かっこいいって!」と見せてくれたのは、手回し式のライトです。
ひとり一人が災害に「備える」ことで、お互いを助け合えるといいます。
「自分のできることは自分でしようというのが年寄りの考え方だ。自分でできることやって、どうしようもならなかったら、若い者だって見捨てないと思うんだ。俺はそう言う皆に」
仮設住宅の中で清光さんと話していたとき、すぐ近くを大きなトラックが通ったことがありました。
ほかの建物の中にいるときより、仮設住宅では、その揺れを大きく感じました。
その瞬間の清光さんの姿が忘れられません。
「地震か?!」
ビクッと体を震わせ、先ほどまでの穏やかな笑顔は凍り付きました。
胆振東部地震の夜、札幌にいた私も大きな揺れを経験しましたが、すぐにトラックによる揺れだとわかり、慌てることはありませんでした。
でも、もっともっと大きな揺れを経験し、家の裏山が崩れる音をすぐそこで聞いた清光さんにとっては、トラックの揺れも、あの日の恐怖を肌に感じる引き金になるのです。
「忘れるなってことだ。災害はいつ起こるかわからない」と、防災の大切さを話す清光さん。
その言葉の重さを感じさせるのは、地震を思い出すときのかたい表情と、妻を想うときのやわらかい表情です。
清光さんの玄関前は、花でいっぱい。
サダ子さんと暮らしていた頃から、変わらない習慣です。
花を見れば浮かぶのは、サダ子さんのこと。
「思い出したってしょうがないけど、出さないったら嘘になる」
取材の後、清光さんとサダ子さんの家の跡地を訪れました。
2人で住んでいた家は取り壊され、もうありません。
けれど、かつての庭には、花が咲き続けていました。
災害関連死を繰り返さないために。
厚真町も、避難所の備えを見直しました。
町の備蓄庫には、約1000人分の食料や水のほか、おむつや粉ミルク、携帯トイレを用意。
コンテナは、胆振東部地震の経験を踏まえて作った「避難所キット」。
筆記具や職員が着るベスト、懐中電灯など、「これを持って行けば避難所が開設できる」ものを詰め合わせています。
しかし、備蓄庫のスペースの関係で、想定避難者数の10分の1程度しか備蓄できないのが段ボールベッドです。
段ボールベッドは、床に寝るのと違い、高さがあるので、横になったり起き上がったりしやすく、床から舞いあがるほこりを吸う量も減らせます。
エコノミークラス症候群や肺炎の防止に有効です。
しかし胆振東部地震のとき、段ボールベッドは最初からあったわけではありませんでした。
清光さんとサダ子さんは、「ごろ寝で、枡の中みたいな感じで、1週間くらい」過ごしたといいます。
支援が届き「やっと段ボールベッドになってから3~4日しか」たたないうちに、サダ子さんが亡くなり、「ストレスがたまるのも無理もない」と話していました。
各自治体が始めているのが、工場との「協定」です。
災害時、工場から直接、優先的に段ボールベッドが届けられます。
厚真町でも、2020年10月に、恵庭の工場と協定を結びました。
さらに、去年の鳥インフルエンザ発生がきっかけとなり、長靴やゴーグル、頭からつま先までを覆えるスーツなどを購入。
これも備蓄していて、災害時に新型コロナウイルスなど感染症の対策のため活用したいといいます。
個人の備えと、自治体の備え。その両輪が必要です。
胆振東部地震から、ことしで5年。
コロナ禍になってからは電話だけで、直接会うのを控えていましたが、久しぶりに清光さんのもとを訪れました。
清光さんは仮設住宅を離れ、災害公営住宅で暮らしています。
この5年間を一緒に過ごしてきた仲間は、今も近所で顔を合わせる人もいれば、施設に入った人も、亡くなってしまった人もいるといいます。
清光さんも体調を崩した時期がありましたが、「まだ杖もいらない、元気に相変わらず出かけてるよ」と笑顔を見せてくれました。
ベッドの横に仏壇。枕元から見上げると、サダ子さんの写真。
サダ子さんが作り方を教えてくれた漬物が得意で、今も作っているといいます。
玄関前には、たくさんのコスモス。
2人で暮らしていた家の庭から運んできたものです。
清光さんが世話をし、毎年きれいな花を咲かせています。
トマトやナスも。花や野菜の世話が、「生きがい」だといいます。
「菊も育ててるんだ。18日に間に合えばいいけどな」
胆振東部地震は5年前の9月6日。
あの日を乗り越えた後に「災害関連死」で亡くなったサダ子さんの命日は、9月18日です。
以前から清光さんは、「だいたい85、86歳くらいが寿命かな」と考えていたそう。
サダ子さんが亡くなったのは81歳でした。
清光さんはそれから5年の日々を生き、86歳になりました。
「だから俺はね、90歳まで生きるんだ。家内の分までね、2人分生きるんだ」
清光さんの暮らしの中には、今もサダ子さんがいる。
花を見つめる横顔に宿る、想いの深さ。
その想いを糧に、これからも元気に長生きしてほしいと願う一方で、胆振東部地震が奪ったものの大きさを、悔やまずにはいられません。
文:Sitakke編集部IKU
胆振東部地震から5年。道内各地の今や、これからの防災に関する情報は、Sitakkeの特集「秋冬のじぶんごと防災」でお伝えしています。
※掲載の内容は取材時(2018年9月~2023年9月)の情報に基づきます