2023.08.13
深める広島に原爆が投下されて、8月6日で78年が経ちました。
92歳の母の記憶…語り継ぐ小学校教諭がいます。
連載「じぶんごとニュース」
千歳市立支笏湖小学校です。
夏休み前、最後の登校日。教室に用意された大きな鉄板。
3年生から6年生の児童6人が集まりました。
視線の先にあるのは、広島名物の「お好み焼き」です。
子どもたちにお好み焼きをふるまっているのは、広島出身の渓口(たにぐち)正裕教諭です。
夏休みを前に、渓口さんが子どもたちにお好み焼きを食べさせたい理由。
それは、どうしても語り継ぎたい記憶があるからです。
「うちの母は寝坊しました。僕の母が寝坊していなければ皆さんと僕の出会いはありません」
渓口さんは、戦後生まれの54歳、被爆体験のある母を持つ、いわゆる「被爆2世」です。
広島、長崎に原爆が投下されてから78年。
かつて「2000人」と言われた道内の被爆者は、ことし3月時点で約200人に。
原爆の記憶を直接語ることができる人は、年々、少なくなっています。
大学進学をきっかけに北海道にやってきた渓口さん。
92歳の母・雅子さんは、12年前に北海道に移住し、北広島市内の特別養護老人ホームで暮しています。
今も消えない78年前、あの日の記憶。
雅子さん「家はもう全然ないです。灰の町。焼け残った町がね、たまには建物が残っていましたけどね、その中は死体ばっかり。生きた人はいなかったです」
1945年8月6日午前8時15分。
当時14歳、安芸高等女学校の2年生だった雅子さんは、うっかり寝坊をしたため、爆心地の近くで予定されていた建物疎開に参加できず、3キロ離れた自宅の縁側で弟と妹と3人で涼んでいました。
「私が記憶にあるのはね、原爆の爆弾が落ちたときの、ぴかっという光、あの光はちょっと見たことない」
現在92歳の雅子さん。
10年ほど前までは、北広島市の公民館などで自身の被爆体験を話したり、広島の原爆資料館に被爆体験の証言を寄せたりと原爆の記憶を語り継ぐ活動を続けてきました。
正裕さんは、「祖母がまだ亡くなったという確認が取れてないんです。遺体すら見つかっていなくて。平和公園の原爆死没者名簿というところに行って、いつも母が『(祖母の名前が)ないね…』って一言こぼしていく背中を見ていたから、それがやっぱり自分の中で残っている」と話します。
教師として、そして被爆2世として。
渓口さんは、32年前に教師になってから毎年、夏休み前に、子どもたちに広島についての授業を行っています。
そこでたどり着いたのが「お好み焼き」でした。
渓口さんがお好み焼きに込めて伝えるメッセージは、後編の記事でお伝えします。
⇒【「母の寝坊」がつないだ命。お好み焼きをふるまうのは、語り継ぎたい記憶があるから】
連載「じぶんごとニュース」
文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部IKU
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2023年8月4日)の情報に基づきます。
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