2023.03.06
深めるロシアがウクライナに侵攻してから、2月24日で1年が経ちました。
人生で2度目の戦争により、旭川に避難した日本人男性は、孫らが残るウクライナの平和を願い続けています。
2月11日、雪の降る旭川で氷像を眺めながら、「サハリンを思い出します」とつぶやく人がいました。
降簱英捷(ふりはた・ひでかつ)さん、79歳。
降籏さんは、1歳のとき、樺太、いまのサハリンで終戦を迎えました。
しかし、戦後の混乱で日本に引き揚げられず、残留を余儀なくされました。
20代で、妻の故郷であるウクライナに移住。
妻と一人息子に先立たれた後も、1人、静かに暮らしていました。
しかし…去年3月。
ロシア軍の攻撃が自宅のそばにも迫ってきたため、降簱さんは孫たちを連れて、ウクライナを脱出。
日本に永住帰国していた妹たちを頼り、旭川市にやってきました。
ことし2月11日、旭川。
降簱さんが作った、「じゃがいも入りのピロシキ」です。
通訳が「ピロシキは奥さんから教わったのですか」と訊ねると、降簱さんは、「いいえ、いつも妻と一緒に作っていました」と話していました。
ロシアの侵攻が始まってから1年。
降籏さんは、日本国籍を取得し、永住帰国の手続きを終えました。
「私の両親は日本へ帰りたがっていました。そのこともあり、私はウクライナへ戻らず、日本に残ることに決めました。年をとってからこんなことが起こるなんて、考えもしていませんでした」
2022年11月、ウクライナで生まれた、ひ孫のエミリアちゃん。
降簱さんは、戦時下で育つひ孫たちの将来を案じています。
「私はウクライナでの戦争はまだ続くと思います。ウクライナには私の孫がいて、ひ孫たちは大きくなっていきます。彼らは戦争を生き抜いて、ウクライナの平和な空の下で暮らすようになるでしょう」
長期化する戦争。
日本とサハリンの間にも、再会を待ち望んでいる家族がいます。
札幌市の加賀谷久子(かがや・ひさこ)さん・80歳。
見せてくれたのは、子どもや孫の姿。
サハリンの短い夏、家族との思い出の写真です。
加賀谷さんもまた、第2次世界大戦後、サハリンに残留を余儀なくされた日本人の1人でした。
ロシア人の夫に先立たれ、12年前、弟と永住帰国したあとも、息子や孫たちに会うために、年に1度はサハリンを訪れていました。
しかし、この3年間は、一度も行けていません。
「子どもや孫、ひ孫に会えなくて寂しいです。会いたいです。私は病気なので、あした死なないとも限らないし」
サハリンと北海道は、飛行機でおよそ1時間半の距離。しかし、日本との直行便はストップしたまま。
心臓に持病のある久子さんは、80という歳をおして、無理することはできません。
「孫たちを抱きしめたいです。そして一緒に出かけて、お腹いっぱいごちそうしたいです」
弟の加賀谷秀雄さん・77歳は、「ウクライナとロシアの戦争が早く終わって、日本とサハリンを行き来できるようになればいいと思います」と話します。
30年以上前から続いてきた、サハリン残留日本人の集団一時帰国も中断。
家族との再会を心待ちにしながら、亡くなった人もいます。
日本サハリン協会の斎藤弘美会長は、「かつての冷戦期のような行き来ができない時代がまた来るなんて、考えてもいなかった。その失望感がたくさんの人たちの間にたまっている。行きたいところに行ける、会いたい人に会える、そういう自由が失われてはいけない」と話します。
第2次世界大戦によって、ふるさとや肉親から引き離された、サハリン残留日本人たち。
77年の時を経て、またも始まった戦争が、彼らと大切な家族を、再び離れ離れにしています。
降簱英捷さんは、「日本もひどい戦争を経験しました。生き残った人たちはもちろんそれを覚えています」と話します。
「人も国も、平和に暮らさなければなりません。戦争をなくして」
77年の時を経て、二度の戦争に翻弄された降簱さん。HBCドキュメンタリーで、よりくわしくお伝えしています。
文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部IKU
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2023年2月24日)の情報に基づきます。
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