2024.01.25
深めるスクリーンに突然老人の裸体が明るく映し出されるという、その唐突さ。
その一見驚きの演出ひとつ取っても、そこにはゲイの歴史に深く思いを馳せる監督の、願いに近い思いが込められています。
東海林監督は、このような言葉も添えてくださいました。
「今回50歳差のゲイカップルを描くことで、日本の男性同性愛者のコミュニティの時間の流れというか、歴史みたいなものが感じてもらえるといいなと思っているんです。HIVの話などが出てきたりはするけれど、この映画の中では『こんな事件があった』『こんな活動があって社会がこう変わった』みたいな、年表的なことは全く触れずにストーリー自体は進んでいく。ゲイヒストリーという単語もあるけれど、男性同性愛者の歴史ってなんだろうって思ったら、それはそんな教科書に載る何かとかではなくて、時間の流れの中で恋愛したりセックスしたり、生きたり死んだりしていく、そんなひとりひとりの人間こそが、まさに歴史だなって思ってるんですよ。それが伝わると嬉しいなって思っています」
短編版にはなかった回想シーンなどが加わり、ストーリーとしての射程が明らかに広がった『老ナルキソス』長編版。衝撃的なラストも見ものです。
この灯台のシーンだけではなく、『老ナルキソス』長編版はその全編を通じて、山崎やレオをはじめとするひとりひとりのゲイたちが、自分たちの「からだ」「こころ」とともにどう生きているのか、生きてきたのかが丁寧に描かれています。
「歴史を刻みつける」……その実践をスクリーン上に描き出したクィア映画として、この作品は後世の表象文化にも少なからぬ影響を与えるのではないか。あたしは、そう思っています。
この映画で伝えたいメッセージ性。
東海林監督曰く、そこは観客がLGBTQであるかどうかに関係なく、その核の部分は変わらないとのこと。
ですが監督としては、見ている側のセクシュアリティによって生じる受け取り方の違いがあることや、だからこそ「こう感じてほしい」という自身のこだわりについて、様々考えるところがあったようです。
「どうしても「ゲイ=恋愛/セックス」といったような描写は、BL的な需要からかしばしば目にするように思うんですけれど、じゃあゲイがどう生きているのかとか、社会の中でのあり方だったりとかってなかなか描かれない。それってちょっとアンバランスなんですよね。」
監督と出演者の方々による一枚。北海道のみならず、全国各地で上映会やイベントが開催されました。
「かたや、じゃあ性的マイノリティやLGBTQっていう単語で当事者について考えれば万事うまくいくのかっていうと、そっちに集約すればそれはそれで、なんかすごく生活実態というか、生活者としての当事者っていうのが見えづらくなる。LGBTQという単語は、政治的な連帯のために機能する部分があって、それ自体は大切なんですけれどもね。実際に一人一人のマイノリティに人生があること、普段の日常があるんだということを感じてもらいたいなと思うし、(自分の人生があり、生活があるという側面は)異性愛者も同性愛者も変わらないはずなんですよ」
この監督の言葉を聞いてあたしは「ああ、これって自分自身、常日頃感じていることだなぁ」と、うなづかずにはいられませんでした。
さっぽろレインボープライドの活動に携わっていると、「LGBTQ」というパッケージ化された表現を一種あえて使って、社会に積極的なメッセージを発信すべき場面に出くわします。
同性婚やパートナーシップ制度といった、法律や政治に関係する話題。そこに当事者として意見することは、LGBTQのアクティビズムに関わる者にとっては、ひとつの責務でしょう。
ですが、社会構造という巨大なものと闘うために用意された「LGBTQ」という大きなフォーカスでは、とらえられないものが確実にあるのだと近年考えるようになりました。それが当事者の、あるいは当事者としての生。
自分自身「ゲイ」であり「女装」でもあり、もっと言えば「LGBTQ」や「性的マイノリティ」といった言葉からも語られうる存在ではあるわけですが……。
そうした言葉たちによって彩られうるとはいえ、それらでは描ききることのできないひとりの人間なのだということを、ふとした瞬間に忘れがちなのかもしれないと、監督の言葉から気づきを得たりもしていたのでした。