帰厚院は、約170年前の江戸時代末期(安政3年=1856年)に、浄土宗が地方で初めての寺院として建立したお寺です。その後、一旦、町内の大火で焼失しますが、明治37年(1904年)に本堂が再建され、大正10年(1921年)に東京以北最大となる木造大仏が造られました。木造大仏は高さ6.8メートルの総金箔塗りで、拝観者を圧倒します。
当時の岩内町はニシン漁やタラ漁で栄える時期があった一方、大正9年(1920年)には第一次大戦後の恐慌に見舞われるなど、浮き沈みの激しい時代にほんろうされていました。さらに昭和29年(1954年)に岩内町は、市街地の8割を焼失する大火にも見舞われましたが、帰厚院は難を逃れて現在に至り、木造大仏は北海道で唯一最大のものとして今年、開眼103周年を迎えます。
こうした歴史あるお寺でも、町の人口減少に伴って檀家離れが進んでいます。岩内町の人口のピークは昭和50年(1975年)の2万5,823人で、以降減少が続き、最新値(2023年11月末)はピーク時の半分以下の1万1,111人です。将来、2060年にはピーク時の7分の1以下の3,511人になると推計されています。
“葬式仏教”と揶揄(やゆ)される時代に、境内に入ったこともない若い世代や墓仕舞いをする檀家も増えて、お寺離れが進んでいます。
「今の子どもには『お寺は怖いところ』なんですね。大人にとっても、葬式や墓参りの時ぐらいしか接点がないところになっているんです」
成田さんは時代の流れを受け止めながらも、「悪あがきをしてみよう」と思ったそうです。そしてその“悪あがき”が、境内にお祭りの日のようなにぎわいを呼ぶことになりました。
去年の師走、山門にレストランのようなのぼりがはためいていました。「こだわりの味、ご用意いたしました」と記され、スパイシーな香りが境内に漂っています。お寺でカレー?どうして?その訳とこだわりの味について、住職の成田さんが私を見据えて話しました。
「きっかけは檀家回りで、あるおばあちゃんとした何気ない会話だったんです。『ごはん、ちゃんと食べてる?』って聞いたら『もう年だから、お昼はそんなに食べないの。夜は昼の残りを食べて、あとは暗くなったら寝るだけ』と言うんです。『そんな生活してたら、ボケちゃうよ。だったら、お寺で食事会しませんか?』って誘ったんです」
そんな住職の思いを“こだわりの味”として形にしたのは、誘われたおばあちゃんたち自身でした。檀家さんもいれば他宗派の人もいます。磨き上げられた板張りの庫裏(くり)で、寄進された野菜や肉がじっくり煮込まれ、甘口のいわゆる“ライスカレー”に仕上がりました。
午後5時から始まった「カレーの日」には、町内の高齢者や家族連れがまずやって来て、部活帰りの中高生や勤め帰りのお父さんたちが列を成しました。
「あっ、○○さん、今月も来てくれたんですね!」
「○○ちゃん、よく来たね~」
成田さんは、来場者一人一人の名前を呼んで招き入れてゆきます。
「どれくらい?大盛り?」「うん、大盛り」
「お代わりしてよ~」「いいの?きょう、腹、減ってるんだわ」
「ルー、多めでお願いします」「これくらいでどう?」
「おいしいかい?」「おいし~い!」
作った人と食べる人の間に、ごく当たり前の会話が交わされます。この時間こそが「カレーの日」の真骨頂と成田さんは話します。
「『家にいたらテレビばかり観ていて、外にも出ない』というお年寄りが結構いるんです。でもここに来たら、必要とされて、することもあるし、話し相手もいるし、ニコニコされているんです」
「うれしい誤算は、当初は年配の檀家さんを対象に考えていたんですが、ふたを開けてみると、うちの子も含めて子どもたちが集まって来たんです。そうすると、その親御さんも集まって来て、さらにおじいちゃんやおばあちゃんも連れて来てくれて。それから月に一度、行うことにして、もう…カオス状態になってしまいました」
広い座敷では畳の上を走り回る子どもがいたり、その様子を叱る親がいたり、その脇でおしゃべりしながらカレーを食べるおじいちゃんがいたり…。3世代が共に食事をする姿は、古き良き時代の食卓のようです。
来場者は80人にも及びました。
しかしこの微笑ましい光景が見られるまでには、一筋縄ではゆかない試行錯誤がありました。
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*文・写真 HBC油谷弘洋
*この連載は、帰厚院の催事や活動に合わせて不定期で出版してゆきます。