2023.09.07
暮らす記者になって1年目、初めて自分で企画した特集の放送が終わり、達成感を胸に家に帰った深夜。
ガタガタと、テーブルも照明も棚も、大きく揺れました。
2018年9月6日。胆振東部地震。
取材でたくさんの人に出会いました。
土砂崩れで家族を失った人。信頼する仲間を失った人。
家が崩れた人。田畑を土砂に埋められた人。
深い痛みと、時間をかけて何とか向き合っていこうとする姿。
地震に負けずにマチを盛り上げたいと、必死に前を向こうとする姿。
取材のたびに、復興に向けて変わったことと、どうしても変えられないことを目にします。
厚真町の山口清光(やまぐち・きよみつ)さん・86歳。
5年前から変わらず、活発に毎日のようにどこかに出かけ、花の世話をし、漬物を作り、仏壇の前で手を合わせています。
5年前に亡くなった、妻のサダ子さんは、もう戻ってきません。
胆振東部地震から5年。当時からの取材を、改めて振り返ります。
当時、清光さんとサダ子さんに何があったのかは前回の記事でお伝えしましたが、今回は、「遺族」にもなれずに葛藤してきた、その後の清光さんの日々をお伝えします。
「おしどり夫婦って言われたくらい。俺が支度してたらどっか行くと思って、先に支度して車に乗って待ってるんだ」
サダ子さんについて話す清光さんは、楽しそうに笑います。
同い年の清光さんとサダ子さん。
81歳のとき、58年の結婚生活を終わらせたのが、胆振東部地震でした。
当時の避難所の映像には、清光さんがほかの避難者に声をかける様子が映っていました。
清光さんの後ろには、サダ子さんの姿が。
清光さんが歩き出すと、ピッタリと後ろをついていきます。
「ごろ寝で1週間くらいでしょ。枡の中みたいな感じで、1週間くらい。やっと段ボールベッドになってから3~4日しかいなかったんでないかな。ストレスがたまるのも無理もない」
地震から12日後、サダ子さんは、避難所の仮設風呂で倒れました。
その後、目を覚ますことはありませんでした。
地震から100日がたった、2018年12月15日に、厚真町で行われた慰霊式。
清光さんは、「遺族」として招待されませんでした。
最大震度7に見舞われた厚真町では、大規模な土砂崩れで36人が命を落としました。
しかし、サダ子さんはこのとき、地震の犠牲者として数えられていませんでした。
清光さんは、「避難所にいて一緒にみんなとごろ寝しながら、がんばっていたのが突然亡くなって。“関連死”にでもなってくれれば、家内は浮かばれると思う」と話していました。
清光さんは、サダ子さんは「災害関連死」なのではないかと、考えていたのです。
多くの人が大切な人や家を失った厚真町。
地震から半年が経っても、「災害関連死」の手続きに入れずにいる状況でした。
「震災で亡くなった人は、道だとか町だとかで慰霊ってものがされているしょ。家内の場合は普通の人と同じような感じだから」
この頃、外に出るときは必ずサングラスをかけていた清光さん。
地震の後、白内障にかかったためだといいます。
「やっぱりショックを受けてんだな。人の体は隙があると病気がとりつくんだから」
サダ子さんの死も、地震によるストレスが原因の「災害関連死」ではないか…。
そう思いながらも、清光さんはつい、『自分のせい』と思ってしまうと話していました。
「俺が風呂に行けって言ったから、それで行ったんだから、そんな命落としたんだってさ。いまだにそれは残ってる。言わなければよかったなって」
家も失い、仮設住宅で一人で暮らしていた清光さん。
「寝てからちょっと考えたらね、身震いするくらい思いだす」
2人で住んでいた家に、毎日のように通いました。
毎年2人で、たくさんの花を咲かせていた庭。
地震の影響で、石段は崩れ、木は倒れました。それでも、生き残ったものもあります。
「強いもんだなほら。これ咲いてる」
枯れることのない、妻への想い。
花を見つめて、毎日を生きてきました。
仮設住宅の談話室で開かれていた体操教室に、清光さんの姿がありました。
狭い仮設住宅で運動量が減ることなどが原因で起こる「災害関連死」を防ぐ取り組みです。
清光さんは、座っている参加者たちに、「お茶をもらいに行きましょ。元気にもらいに行きましょ。歩く運動。やってごらん」と明るく声をかけ、場を和ませていました。
清光さんの日課は、体操教室と、パソコンでつけている日記。前向きな言葉をつづります。
仲間と懸命に復興を目指す清光さん。
サダ子さんが亡くなってから、9か月目の月命日には、住職を招いてお経をあげてもらいました。仏壇は、苫小牧まで行って買ってきた花で彩られていました。
そして、2人で住んでいた家へと向かいました。
出かけるときは、「ばあちゃん行ってきます」と、サダ子さんの写真に語りかけます。
「いつも言ってくんだ。落ち着くんだ」
復興のため前を向こうと思っても、引きずってしまう後悔。
空いてしまった助手席も、窓から見える風景も、胸を締め付けます。
この頃には、全壊した自宅は撤去され、住み慣れた景色は一変しました。
「全然変わったしょ。本当にもう自分ちがどこだってわからん」
庭は残りましたが、これまでとは違うといいます。
「ハスカップはこれだ、見てごらん。なり悪いねえ。こんなに雑草なんて生えてなかったんだ。サダがみんな取ってたからね」
結婚して58年。
旅行はもちろん、ちょっとタバコを買いに出るときでさえ、いつもそばにいたというサダ子さん。
清光さんが、サダ子さんのため、最後にしたいこと。
「災害関連死」として認めてもらうことです。
「決まるもの決まらないと逝くとこ逝けないしょ。浄土の世界に行けない。何も進まないんだ。みんな全部止まってるんだ」
清光さんは、災害関連死認定の申請書類を町に提出しました。
書類を書くのは、思い出したくないことを思い出す作業で、つらかったといいます。
「安らかに逝けるような形にね。今の状態じゃ心苦しいわけさ」
サダ子さんの死から9か月以上が経った、2019年6月28日、医師や弁護士による審査委員会が行われました。
その翌日、町は「災害関連死」と認定しました。
つまり、サダ子さんの死は「地震によるストレスの影響」と判断されたのです。
胸をなでおろすしぐさをした、清光さん。
「俺が『風呂に行け』と言ったのもあったかもしれないけど、ショック的なものがあってそうつながっていったんだって理解できる。時間はかかるけど、自分を責めなくなるいうのはそこだ」
「遺族」にもなれずに、苦しんできた清光さん。
「災害関連死」の認定は、「心の救い」になりました。
しかし、一方で…。
「やっぱりゆっくりとあれ、じわじわじわじわ、やっぱり来るね、やっぱりね。一人の寂しさが来るわ」
震災後の生活のつらさも、2人で乗り越えるはずでした。
「漬物はみんなに褒められるよ。おいしいよ。家内に習ったから」
「家内がいればね、おいしいんだけど。なんでもひとりだ」
災害関連死の認定は、終わりではなく、ひとつの区切り。
それからの日々も、生きていこうとする清光さん。
しかし、暮らしの中の「楽しみ」を奪うできごとがありました。
続きは次回の記事でお伝えします。
胆振東部地震から5年。道内各地の今や、これからの防災に関する情報は、Sitakkeの特集「秋冬のじぶんごと防災」でお伝えしています。
※掲載の内容は取材時(2018年9月~2023年9月)の情報に基づきます