2023.09.06
暮らす「おーい!こっちだよ!」
たくさんのコスモスの奥に見えた、小さな窓。
山口清光(やまぐち・きよみつ)さんが手を振っていました。
86歳。コロナ禍になってから直接会うのを控えていたため、およそ3年ぶりの再会です。
「家に上がんな。…ほら、ここにいるんだよ」
玄関を通ってすぐ、案内してくれたのはベッドのすぐ横。
仏壇がありました。
枕元から見上げると、妻・サダ子さんの写真があります。
サダ子さんは、5年前、胆振東部地震で亡くなりました。
2018年9月6日。清光さんとサダ子さんの住む胆振の厚真町は、最大震度7に見舞われました。
厚真町では大規模な土砂崩れがおき、36人が命を落としました。
ただサダ子さんは、この「36人」には含まれていません。
サダ子さんは、あの日、地震を生きのびたはずでした。でも、災害は一日では終わらなかったのです。
胆振東部地震から5年。当時からの取材を、改めて振り返ります。
厚真町・冨里地区に住んでいた、清光さんとサダ子さん。当時、2人とも81歳でした。
2018年9月6日、震度7の大地震に見舞われました。
「ダダダダーンと。2人でベッドの上にいて、家内を抱きしめて、上から物が落ちてきて。一瞬の出来事だ」
2人でなんとか外に出ると、山の上に生えていたはずの木が、足元にありました。
「泥が向こうさ行ってたからいいけど、ずれてたら俺らはドサーッってやられた。危機一髪だった」
2人とも命が助かり、「奇跡」だと噛み締めていた清光さん。
しかし、「災害」は終わりませんでした。
避難所に身を寄せましたが、サダ子さんは胃の痛みを訴え始めます。
「ごろ寝で1週間くらいでしょ。枡の中みたいな感じで、1週間くらい。やっと段ボールベッドになってから3~4日しかいなかったんでないかな。ストレスがたまるのも無理もない」
サダ子さんは入浴を嫌がるようになります。避難生活では命を守るために「清潔」も大事な要素。清光さんは風呂に行くように勧めていました。
地震から、12日後のことでした。
「『お風呂に入ってこい』って言ったら、家内はあんまりいい気しなかった。それでも家内が、『あたし先に行ってるわ』って。それで出て行ったっきり、お別れ。それがお別れだった」
9月18日、午後3時ごろ。
サダ子さんが避難所の浴槽で倒れているのが見つかりました。
貧血を起こしたと見られています。
避難所に響く、救急車のサイレン。
清光さんは看護師に呼ばれ、避難所の外に出ると、サダ子さんが担架に乗せられていました。
腕に点滴。心臓マッサージをされながら、救急車へと運ばれていくサダ子さん。
「俺が手をつかまえていたんだ。だんだんだんだん、時間がたつにつれて、冷たくなってきたもん」
サダ子さん・81歳。
その後、目を覚ますことはありませんでした。
妻と家を失った清光さん。厚真町の仮設住宅で、一人で暮らすことになりました。
「大変だわ、やっぱり一人で暮らすのはね。ごはんを炊くのは家内にまかせきりだった。俺はごはん炊いたことない」
サダ子さんと連れ添った、58年。
「おもしろいもんでね、夫婦長くなるとそんなに会話ってないもんだ。わかるんだ。話をしなくたって、わかる。態度でわかる」
2人で、たくさん旅行に行きました。
「『あの人たちはどこへでも2人で行ってた』って評判なんだよ」
仏壇はいつも、サダ子さんの好きだったものでいっぱいです。
花は毎日手入れされ、枯れることがありません。
清光さんは、「きのうも友達が来て、『サダちゃんはいつ来ても花に埋まってる』って言われた」と微笑みます。
毎日朝晩のお参りで、たまった灰。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…。まーいにち、お参りだ」
2019年4月10日。
この日は、サダ子さんの誕生日です。
「誕生日っていうのは、生きているときの誕生日だから。おんなじ82歳に…亡くなった人は年取らんから、特別なのはあれしないんだ」
同い年の2人。この年、清光さんだけが、82歳になりました。
この頃、清光さんは、サダ子さんが亡くなったのは『自分のせい』と思ってしまうと、話していました。
「俺が風呂に行けって言ったから、それで行ったんだから、そんな命落としたんだってさ。いまだにそれは残ってる。言わなければよかったなって」
地震から半年がたっても、サダ子さんの死は『地震のせい』とは認められていなかったのです。
「地震の犠牲者の遺族」にもなれずに、『自分のせい』と思って過ごしてきた、清光さんの日々。
わずかな救いが見えたのは、もう少し先の話です。
続きは次回の記事でお伝えします。
胆振東部地震から5年。道内各地の今や、これからの防災に関する情報は、Sitakkeの特集「秋冬のじぶんごと防災」でお伝えしています。
※掲載の内容は取材時(2018年9月~2023年9月)の情報に基づきます。