2020年8月に惜しまれながら閉店した三笠市幾春別地区の老舗「更科食堂」が、地域おこし協力隊によって営業を再開しました。
東京都で飲食店を経営する男性が、長年親しまれた味を引き継ぎ、過疎のまちに活気を取り戻そうとしています。再建にかける思いを伺いました。
三笠市は開拓時代に炭鉱で栄えたまちです。北海道で早くから鉄道が開通し、最盛期には6万3千人以上が暮らしていました。
幾春別地区にある「更科食堂」は、創業から約90年以上の歴史を持ち、坑夫たちの空腹を満たしてきました。初代店主は富山で蕎麦打ちを習得し、北海道に渡って1920(大正9)年に岩見沢市美流渡地区に食堂を開業。1925(大正14)年に現在の場所に移転しました。風格を感じる店舗が当時の様子を今に伝えています。
石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれていましたが、昭和後期になるとエネルギーの転換が起こり、炭鉱景気で賑わっていたまちは閉山によって衰退します。初代の孫となる平田尚敬さんが3代目店主となったころ、まちは寂れ人口が減少していました。
地元の人々に愛され続けた「更科食堂」でしたが、平田さんが高齢になったことや体調不良のため、惜しまれながら2020年に閉店。創業100周年を目前に歴史に幕を下ろしました。
人口減少や後継者不足による閉店は、全国各地で起こっている問題です。そのまま消えゆく運命のお店が多いなか、「更科食堂」は思わぬ復活を遂げます。
「飲食店がなくなることで、まちが衰退し元気がなくなる」と危惧した三笠市が、地域おこし協力隊として承継者を募集したのです。
「更科食堂」の後継者募集の情報は、東京で飲食店を経営していた白髭克彦さん(旭川市出身)の目にも止まりました。
「これまで東京で地域食堂をテーマにした飲食店を経営し、約20年続くラーメン屋の事業も承継してきました。北海道は私の出身地ということもあり、地域活性を担う『更科食堂』に関心を持ちました」
ビジネスとして大きな利益を求めるのが難しい案件ですが、白髭さんは「そこだけに比重を置いていない」と言います。
コロナ禍で飲食店の経営が難しくなったなかで頑張れた理由は、“地域の方々の温かさ”。「美味しかった、また来るよ」という言葉に何度も助けられ、今度は「地域の力になりたい」と思ったそうです。
4代目店主となった白髭さんは、平田さんからレシピを受け継ぎ、店の看板でもある蕎麦打ちの手ほどきを受けました。
「打ち手が変われば味も変わります。伝統を引き継ぐプレッシャーを感じながら、お客さんが喜ぶ顔を思い描いて指導を受けました」と笑います。
さっそく、苦労して技術を継承した“更科蕎麦”をいただきました。
筆者は先代の味を知らないため比較ができませんが、純粋に美味しいお蕎麦です。蕎麦の香りや味が前面に押し出される田舎蕎麦が筆者の好みですが、「上品かつ繊細な旨味の更科蕎麦もいいね」と素直に思えました。
蕎麦の命とも言える“かえし(つゆ)”も極上で、麺とのバランスもよく、蕎麦湯として最後の一滴まで美味しく味わいました。
丼物などのメニューも豊富なので、何を食べようか迷うと思いますが、初めての訪問はシンプルかつ職人の腕が試される『もりそば』をおすすめします。
白髭さんは、「これまでの歴史があるので、メニューや営業形態をガラリと変えるつもりはありません。ただし、時代の変化に対応していかなければ、逆に地域と共に衰退してしまいます。たとえばキャッシュレス決済に対応するなど、小さな工夫を加えていきたいと思います」と言います。
現在は「更科食堂」の再開が話題となり、大勢のお客さんが訪れていますが、一過性のブームで終わることなく、“幾春別の名店”として新しい歴史を歩むことでしょう。
現在、白髭さんは2つの課題を抱えています。1つは、100年の歴史を持つ店舗の老朽化です。白髭さんは店舗兼住居として住んでいますが、断熱性が弱く隙間風も入るので、真冬は外のような寒さを感じることがあるそう。
「この店舗を残すことも継承の1つだと思っていますので、100年後もこの姿を維持できるよう修繕していく予定です」
2つ目の課題は、冬期間の顧客の確保です。幾春別地区を通る道路は、夏期は札幌から富良野などに向かう車で交通量が多いですが、冬は観光客が激減し、閑散としてしまいます。
「まちを活性化させるためには、『更科食堂』だけでなく、三笠のまちが一丸となって魅力を発信する必要があります」と白髭さん。
以前紹介させていただいた「湯の元温泉旅館」(桂沢地区)の杉浦一生さんとは、歳が近く移住者であるなどの共通点があり、地域活性化について話すことが多いそう。どのような変化を三笠にもたらしてくれるのか。今後の取り組みが楽しみです。
<店舗情報>
更科食堂
■住所:北海道三笠市幾春別町1丁目174番地
■電話番号:01267-6-8323
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