戊辰戦争では、幕府軍のリーダーとして最後まで新政府軍と戦って敗れるも、その後、明治新政府で重用されるなど、波乱万丈の人生を送った榎本武揚。その榎本武揚が小樽の開拓に密接に絡んでいたことはご存知でしょうか?今回は、榎本武揚と小樽について、そして、小樽市内にある榎本武揚ゆかりの場所をご紹介します。
まずは榎本武揚について簡単にご紹介!
●1836年(天保7年)8月25日、榎本円兵衛武規の次男として、江戸御徒町に誕生。幼名は釜次郎。
●幕末はオランダに留学し、化学を学ぶ。「オランダで学んだ化学の知識を日本の近代化に役立てたい」と当時の手紙に残している。
●帰国後、江戸時代末期(幕末)、幕府の海軍副総裁。箱館戦争の際には、箱館の五稜郭で、幕府軍のリーダーとして最後まで戦った武将。
●新政府軍に敗れるも、明治政府は敵軍の将である榎本を大臣として登用。新国家には欠かせない人物となり、明治の近代化に大きな功績を残していく。
●戊辰戦争による投獄ののち、特赦により1872年から北海道開拓使に仕官。1874年には、駐露特命全権公使、そして日本初の海軍中将となり、帰国後も大臣を歴任。
北垣国道(きたがきくにみち。後の北海道開拓長官)とともに、1872年(明治5年)の国有地払い下げの折に、小樽の土地20万坪(今の小樽の稲穂と富岡地区一帯)を購入し、小樽の市街地開発を進めるため「北辰社」を設立。
当時の小樽の土地は人が暮らせるような環境ではなかったが、榎本武揚は、小樽には天然の良港と言われた入江があり、将来必ず長崎のように貿易と文化のリーダー役を果たす地域になると確信して、小樽の市街地開発を進めている。その後、その確信は現実のものとなり、明治から昭和初期までの約70年間、小樽は黄金時代を築くこととなります。
さあ、小樽の発展を語るには欠かせない榎本武揚ゆかりの地を巡ってみましょう!
まず最初にご紹介するのは、小樽駅から海に向かって徒歩数分の場所にある「梁川(やながわ)通り」。
そこに昭和の風情が残る「梁川(やながわ)商店街」があります。この辺り一帯の土地を所有し、発展の元を築き上げた榎本武揚。
この「梁川」という言葉は、榎本武揚の雅号「梁川(りょうせん)」を由来としています。
ちなみに、梁川通りの一本隣にある「静屋(しずや)通り」は、共に北辰社を設立した北垣国道の雅号「静屋(せいおく)」を由来とし、北辰社は、静屋通りにある現小樽駅前の朝日生命ビル辺りに設立したと伝えられています。
【梁川商店街】
ホームページ
Google Maps
梁川商店街の詳しい記事についてはこちらから!
【月刊小樽自身 2021年10月号】レトロな街並み、温かい人情 梁川(やながわ)商店街
梁川商店街から中央通りを挟んで向かいにある「小樽都通り商店街」。
アーケードのある商店街としては北海道で2番目に古い歴史ある商店街で、2021年には創立100周年を迎えています。
こちらも榎本武揚が土地を所有し開発を進めていた地域で、榎本武揚ゆかりの地であることから、榎本武揚をシンボルとして商店街のいたるところで掲げており、その歴史を学ぶこともできます。
【小樽都通り商店街】
ホームページ
Google Maps
小樽都通り商店街の詳しい記事についてはこちらから!
【月刊小樽自身2021年12月号】 クローズアップ地域 都通り商店街
龍宮神社は、明治9年国有地払い下げの折、榎本武揚がアイヌ民族の祭場であったとも伝えられる場所に、榎本家の遠祖である桓武天皇を合祀し、移民の安意を図るため「北海鎮護」と献額し社を建立したことが始まりとされています。榎本武揚ゆかりのものが多くあります。
【龍宮神社】
ホームページ
Google Maps
手宮洞窟保存館は、4〜5世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流をしていたことを示す大変貴重な遺跡です。
この遺跡の第一発見者は石工の長兵衛と伝えられていますが、この洞窟の噂を聞いた榎本武揚が、文字ようの刻みを模写し、石鏃・石斧、陶器などを発掘しました。
この模写と遺物は、学術上貴重なものとして東京帝国大学に報告され、榎本武揚は第一報告者となり、その後、考古学者のジョン・ミルンなどの詳しい調査を経て、貴重な文化財として保存されることとなりました。
【手宮洞窟保存館】
ホームページ
Google Maps
※令和5年4月28日(金)まで休館中
(博物館からのお知らせ)
今は散策路になっている旧国鉄手宮線も榎本武揚ゆかりの線路です。「北海道で最初」の鉄道として、小樽港から幌内(現・三笠市)の良質な石炭を積み出すことを目的とした官営幌内鉄道の最初の開業区間として敷設されました。
この陰には、幌内炭鉱から産出される石炭の積出し港として、小樽を強く推した榎本武揚の姿がありました。当時、開拓使顧問のケプロンは太平洋側へのルートを主張しましたが、榎本武揚は日本海側、小樽へと運ぶルートを支持し、最終的に榎本武揚の案が採用され、1880年に手宮と幌内を結ぶ線路が完成しました。
なお、この旧国鉄手宮線の散策路を北側に歩くと、小樽市総合博物館本館に繋がります。博物館本館では、北海道最初の機関車たちと同じ会社で生まれた兄弟車両「アイアンホース号」の乗車体験や、明治18年に幌内鉄道で6番目に輸入された蒸気機関車「しづか号」の展示等を見ることができます。
【旧国鉄手宮線】
Google Maps
【小樽市総合博物館】
ホームページ
Google Maps
最後にご紹介するのは「小樽商科大学」です。小樽商科大学の起源は、明治44年5月、全国の官立高等商業学校のうち第5番目として開校された「小樽高等商業学校」の設立にはじまります。
日露戦争後の1906年、日本政府は5つ目の高商設立を内定し、全国の有力都市各地で誘致運動が始まります。有力候補だったのは函館、仙台も名乗りをあげていた中、小樽は高商の敷地として 1万坪、建設費のうち (当時のお金で)5万円を寄付すると区議会で決定し、政府に働きかけます。
「地元が建設費37万円のうち20万円を負担するならば、小樽に高商を設置してよい」という政府の答えに、小樽の有志たちはお金集めに奔走しますが、このとき、実は榎本武揚も出資していることが最近の調査でもわかりました。
そして1910年、第五高等商業学校が小樽に設置されることが決定し、1911年に開学します。残念ながら、榎本武揚は1908年に亡くなっているので、開学を見届けることはできませんでした。
【小樽商科大学】
ホームページ Google Maps
榎本武揚ゆかりの地のご紹介は以上となります!
この他にも榎本武揚は、石鹸製造にまで関心を示していたなど、調べれば調べるほど深く広い人物だということが分かりました。
この機会に榎本武揚について調べてみるのはいかがでしょうか?
***
参考資料
・「志蘇る」 榎本武揚没後100年事業小樽実行委員会記念誌(小樽図書館蔵書)
・小樽学「2009年10月号(まちづくり観光⑦まちづくり運動と観光)」(小樽図書館蔵書)
・醍醐龍馬「榎本武揚-『第二の故郷』小樽発展への想い」醍醐龍馬編『小樽学-港町から地域を考える』小樽商科大学出版会発行、日本経済評論社発売、2023年
・その他榎本武揚ゆかり施設等のホームページ情報や資料
内容は掲載時点(2023年3月25日)の情報に基づきます。
内容の変更が発生する場合がありますので、最新の情報は各店舗・各施設にお問い合わせください。
小樽の旬・ディープな情報を「”市民目線”でおもしろおかしく、真面目にお届け」しているウェブマガジン「小樽自身」から、選りすぐりの記事をお届けしています。