2023.03.20
深める東日本大震災で遺族の心に寄り添った、むかわ町の住職。
その後、自身も「被災者」になって、取り組んだこととは?
胆振のむかわ町で130年の歴史を持つ法城寺(ほうじょうじ)です。
住職の舛田那由他(ますだ・なゆた)さん。あの日のことを、鮮明に覚えています。
東日本大震災。
最大震度7の揺れと、巨大な津波が襲い、1万5900人が死亡。
2523人が行方不明になりました。(警察庁まとめ・2022年2月末時点)
発生から1週間後。
舛田さんは、仲間の僧侶たちとともに、ボランティアのため仙台に向かいました。
泥の除去や、炊き出しに加えて、力を注いだのは、僧侶として、遺体安置所で手を合わせることでした。
「中には手だけのご遺体、足だけのご遺体、水で流されて体が2倍にも3倍にも膨れ上がってしまったご遺体が並べてあった」
「あるご遺族が来られて『うちのじいちゃんが亡くなって、お坊さんに来てもらうこともできないし、火葬にすることもできないで、ここに寝かせたままで申し訳ないと思っていたけれど、お坊さんが手を合わせてくれて助かった』とすがりつくように涙を流されていた」
被災者の心のケアが必要だと感じた舛田さん。
もともと得意だった料理の腕を生かして、ジンギスカンや石狩鍋を、被災した人たちにふるまいました。
「ジンギスカンは1トン以上持っていったんじゃないですかね。大変な中でも笑い合って冗談を言いながら、おいしいものを食べながら活動することが継続につながると東日本大震災で学んだ」
東日本大震災から7年半が経った、2018年9月6日。
今度は、舛田さんの住む、むかわ町を地震が襲いました。
「私は東北でいろんな人と関わって経験させてもらったので、被災者だけど支援活動しようという気持ちに切り替わった」
舛田さんが目を向けたのは、地域の子どもたちでした。
「子どもたちが普段よりわがままになっていたり、泣きやすくなっていたり。いつも通りの生活をさせる、遊ばせてあげるのが大事と聞いていたので」
舛田さんは、寺の大広間を、子どもたちの遊び場として開放。
地震のあと、不安定な気持ちを抱えていた子どもたちは、ここで思い切り走り回り、時にはけんかし、そして笑顔を取り戻していきました。
75畳もの大広間。先代の住職の「防災への思い」が込められていました。
ここを作ったのは、今は亡き、先代の住職です。
1995年の阪神・淡路大震災。
先代の住職で、舛田さんの父・和麿(かずまろ)さんもまた、現地を訪れ、ボランティア活動を行っていました。
和麿さんは、「半壊や全壊した被災寺院が積極的に被災者を受け入れ、積極的に救援活動を続けていた」「万が一近隣で災害が起きたときには、お寺を開放し役立ててもらおう」という言葉を遺しています。
舛田那由他住職は、「父の願いをかなえることができた。父に褒められたことがなかった。褒めてくれるのか『いや、まだできるだろう』と言っているかもしれない」と話します。
去年、地域の人たちに楽しみながら防災について考えてもらおうと、お笑いコンビ「アップダウンを招いてイベントを開催。
舛田さんも、自身の被災体験をステージで話しました。
おととしには、町内の5つの寺とともに、むかわ町と防災協定を締結。
災害時に、地域住民の一時避難施設として、寺を利用できるようにしました。
「未来に起こるかもしれない災害で、たくさんの人がちょっとでも救われることを願う」
繰り返される震災から得られた経験を、住職の父と子が、地域の人たちへ伝え続けています。
文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部IKU
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2023年3月6日)の情報に基づきます。
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