2023.03.21
深める岩手県の沿岸部に位置する大槌町。
2011年3月11日、巨大な津波が町を飲み込みました。
死者・行方不明者は、当時の人口の8%にあたる1286人。
町は、完全に破壊されました。
あたり一面が瓦礫。
建物に大きな遊覧船が乗りあがったままになっていました。
あの日から12年。
瓦礫があった場所には新しい家が建ち並び、巨大な防潮堤も作られました。
大槌町の平野公三町長。
防災のためには、防潮堤などのハード面に加え、震災の体験を次の世代に伝承することが必要だと訴えます。
「震災を知らない子どもたちにどう津波の恐ろしさ、その時の状況を伝えていくか。そして、そこから自分の命を守る、家族の命を守る、地域の命を守るということが考えられるようなそういう子どもたちになってほしい」
大槌町で、被災した体験を語り続ける女子大学生がいます。
太田夢さん、20歳。8歳の時に被災しました。
「あそこに見えている私が元通っていた大槌小学校ですね。教室で帰りの学活をしていたんですけど、地震が起きて」
その後、太田さんは、避難した先の神社で壮絶な体験します。
「母と双子の兄と3人でいたときに、母が家の方に戻っちゃって。ちょっと小高いところで私たち双子が母の帰りを待っていたんですけど、どんどん津波が来ていて、近所のおばちゃんたちが『そこあぶねぇから上さ行け』みたいなことを言ってくれていたんですけど、兄が『嫌だ、お母さんを待つ』って」
離れた場所にいた妹の薬を取りに、家に戻った母親。
津波に襲われる間一髪のところで、太田さんのもとへ戻ってきました。
「母が土埃から出てきたんですよね。本当にぎりぎりに合流して。三人が揃ってからは、ここだと土埃の高さが尋常じゃなかったので、ここも危ないなということで、とにかく高いところへ行って」
必死に山をよじ登る最中に、太田さんは一度だけ、後ろを振り返ったと言います。
「壁ですね。水と瓦礫と土の壁が。家も回ってましたね。もしかしたら、その中に人がいたかもしれないと思うと怖くて想像したくはなかったですけど…」
山を登り切った太田さんは、高台の避難所で父親や妹と再会しました。
しかし、海の近くに住んでいた祖母と伯父は、津波に飲み込まれ、帰らぬ人となりました。
「祖母は足とかが弱かったので…あんまり高くは登れないけどちょっと高いところがあったんですよ。そこに人が集まって。けど、そこを超える波だったので、もう丸ごとそこに避難していた人たちが飲まれちゃって。その中の一人だったんじゃないですかね…」
太田さんは今、岩手県内の大学で、ソフトウェアについて学んでいます。
彼女が震災を語るようになったきっかけは、北海道で起きた地震でした。
2018年に起きた北海道胆振東部地震。
この翌年、太田さんはボランティアとして厚真町を訪れ、地元の子どもたちと交流しました。
「だんだん大人になるにつれて、ちゃんと嫌な記憶も思い出してきて。そうなってほしくないので、できる限り今つらい時期、つらいはずの時期に楽しい記憶を増やしてほしいなとは思いましたね」
ボランティアをしていく中で、太田さんは伝えることの大切さに気付きました。
「私たちが受けた東日本大震災がきっかけで、ちゃんと役所とかがどう動くかとかが見直されるようになって、効率的に仮設住宅も建てられてという話を聞いて。ちゃんと自分たちが体験したことって伝わると役に立つんだなって」
岩手に戻った太田さんは、自分が通う高校で、震災体験を伝承するチーム「夢団(ゆめだん)」を立ち上げました。
小学校などを回って、子どもたちに自分の震災体験を語り伝えたのです。
「過去に起きた悲劇を忘れないことが一番の防災なので、他人事だとは思わずに、過去に何が起きたかっていうのは考える機会を作ってみたらいいなと思います」
伝えることこそが、防災。
太田さんは辛い記憶と向き合いながら、これからも震災の体験を伝え続けていきます。
文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部IKU
※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2023年3月8日)の情報に基づきます。
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