2022.06.25
深める「こころが男性どうし」のふうふが、子どもを授かる…。連載「忘れないよ、ありがとう」では、ちかさんときみちゃん、そしてきみちゃんのおなかに宿った羅希ちゃんの姿を通して、性別によって変わらない、人の心について考えてきました。
彼らの姿は、社会で「LGBT」という“言葉”は広まっていても、“理解”はまだまだ進んでいなかったんだ、という現実に、気づかせてくれたように思います。そして、 「LGBT」というひとつの言葉でくくっていいのかな、という疑問も湧いてきました。
きょうは連載の番外編として、ちかさんときみちゃんの出会いの場であるバー「7丁目のパウダールーム」の店長・満島てる子さんが、当事者の本音に迫ります。前編では、ちかさんときみちゃんの想いについてお伝えしましたが、今回は、さらに4人が想いを語ってくれました。
【この記事の内容】
・取材する側のモラルとリテラシー
・LGBTとSOGIと…「言葉」に感じること
・「人間じゃないのかな」って感じていたこともあった
***
「マイノリティって表現が嫌い」「SOGIという語には危うさがある」……。
当事者同士の語りから出てきたのは、率直かつ鮮烈で、そして重みのある意見でした。
皆さんこんにちは、満島てる子です。いつもSitakkeでは、お悩み相談コーナーを担当しています。普段は「7丁目のパウダールーム」というバーで働きながら、さっぽろレインボープライド実行委員会という、札幌市でLGBTQパレードを開催している団体の副実行委員長も務めています。
今回は連載「忘れないよ、ありがとう」の記事のひとつとして、セクシュアルマイノリティのいち当事者という視点から、「LGBT」「SOGI」といった言葉やその使われ方に関して、思うことを記していこうと思います。
先日HBC社屋に集まってくれたメンバーは、自身の取材経験をふまえ、様々な側面から実際の思いを語ってくれました。
4月30日(土)。会議室には、私に加え以下の4人のメンバーがいました。
右から小島翼斗さん、まるさん、金子弘実さん、Eさん。
みなさんはいずれも、ひとりの性的マイノリティとして報道の場面に立ち会ったことのある方々です。彼らとの懇談は、まず「取材する側のモラルとリテラシー」という話題から始まりました。
小島翼斗さんは「7丁目のママ」という、ドラァグクィーンたちが働くミックスバーの店長をしています。
最初にメディアの取材を受けたのは、お店がオープンして半年経ったタイミング。当時は「いろんな人に身バレしたくないけれど、化粧した姿ならいいかな……」という気持ちだったんだとか。
ですが、「なんでこんなに人前に出ることを躊躇してるんだろう」とみずからを振り返ったときに、おのれのセクシャリティをどこか引け目に感じ、誇れないでいる自分に気づいたんだそう。そこから「自分がゲイであることを申し訳ないなんて思わなくていい。そもそも隠す必要なんてないんだ」という考えに至ったと語ってくれました。
そんな、取材をきっかけに大きな心境の変化をむかえた翼斗さんですが、LGBTに関する話題に限らずインタビューを受ける際、相手の記者がどんな態度なのかによって、自分の気持ちを開示できるかどうかについて少なからぬ違いがあると言います。
「同じような内容についての取材でも、連絡の段階から細やかに気遣いをしてくれる記者さんがいる一方で、そもそも感じの悪い人がいると話す気がなくなる『うわヤダ、無理かもしれない』って思うし、そういう対応になってしまうよね。触れてほしくないような部分にズケズケ突っ込んでこられる場合もあって、失礼だしやめてほしいと思った」
「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟の原告のひとりであり、性的マイノリティの当事者やその家族を支えることを目的として活動している団体「NPO法人L-Port」のメンバーでもあるEさんも、メディア側の姿勢に頭を抱えたことがあるそう。
最近Eさんは、L-Portの取り組みのひとつとして、「当事者が安心して気軽に集うことのできる場所を作りたい!」という思いから、「にじいろ談話室」という少人数制のイベントをはじめました。このイベントは、コミュニティにまだ慣れていない人や、クローゼット(※1)の当事者を対象にしたものなのですが、この談話室に配慮のない取材が入り、とても困ったんだとか。
「来てくれる方々の安心・安全を確保するために、取材は準備時間だけでとお願いし、イベントの最中は来ないでほしいとか、参加者へのインタビューはNGでとか、こちらの要望はあらかじめ伝えていたのに、いざ当日会ってみると『来場した方への聞き取りをしたい』と言われたんです。何度断っても『これでは取材にならない』と半ギレ。威圧感もすごくて、最終的に折り合いをつけるかたちで、納得してくれた参加者のひとりと一緒にインタビューを受けることにしたんですが、その内容もひどかった。私は実名を出さずに活動していますし、その参加者の方も家族にカミングアウトしていないので、どちらも名前は出さないでと伝えたのですが、『実名報道は無理なのか?』と数回詰問され、断るたびにため息をつかれました」
そんな経験をしたEさんですが、彼女も翼斗さんと同じように、取材をする側の熱意や知識、どう取り上げようかという姿勢など、その入れ込み具合に差を感じることがあると言います。
「ちゃんと報道しなきゃと思ってくれている記者さんは、LGBTの報道に関するガイドラインを読んできた上で対応してくれたり、自分の中でこんな記事・ニュースにしたいとイメージをもって臨んでくれる。だからこそ、そうでない人というか、『ただ日々のニュースの中の5分間の企画のために来ました』という態度だったりすると、その感じがこちらにも伝わってくるんです」
また、どのような態度でインタビューされるのかと同じぐらい、どう報道に向けて仕上げられるのかも、取材を受けた側としては気になるところでしょう。例えば、キャッチーでインパクトのある内容で発信されていればそれでいいのかというと、取り上げられ方に性的マイノリティに対する配慮が欠けているのなら、それは問題含みの報道と言えます。
札幌市にてLGBTQパレードの開催を行っている団体「さっぽろレインボープライド」の副実行委員長を私と一緒に務めている金子さんは(普段はキンちゃんって呼んでます笑)、ひとりのトランス男性の当事者として取材を受けたことがあるそうなのですが、その際の表現に驚いたんだとか。
「性別適合手術を受けたことを、『子宮と乳房を摘出し……』とおどろおどろしく書かれていて、『え、怖くない!?』って。確かに大変な手術だしリアルに伝えたいのはわかるんだけど、読んでる人からしたら『めちゃくちゃ恐ろしい……こいつ改造人間じゃん』ってイメージになっちゃうんじゃないかなと。言い回しとかには結構思うところがある。たとえば同じような手術を受けたいと思っている人がいて、その人の親がその記事を読んだら、手術を受けていいって言わないんじゃないかとか…」
取材にあたっての配慮から、報道の内容に至るまで。
メディア側の人間がどのようなスタンスで当事者と向き合い、その語りをどうピックアップするのかは、あたし自身インタビューを受けることもあった身として、取材される機会があるたびにその都度気になっていた点ですし、だからこそ、みんなの発言にはとても共感を覚えました。
特に、今回のヒアリングの中で金子さんが残した次のような言葉は、あたしのこころにとりわけ強い印象を残しています。
「なんか別に全然勉強してなくてもよくって……なんて言うんだろう、なんか失礼なことがあったら教えてくださいとか、わたしまだまだ勉強不足なんですってことを言ってくれたりとかすると、こちらとしても話しやすいんだよね。LGBTうんぬんかんぬんというより、まず人としてどうなのかによって変わってくると思う」
LGBT当事者は、その人がそのセクシュアリティを生きていることと同じぐらい当たり前に、まずひとりの「人として」存在しています。そして同様に、取材するメディア側もその取材を受ける側も、どちらも人間。
もちろんガイドラインに記載されているような、アウティングの防止といった、当事者を相手にしているからこその配慮はあって然るべきです。でも、いざ誰かの話を聞くとなったときには、その前に人と人とのつながりの作り方が大事になってきます。
人間同士です。そもそも完全にはわかりあえるものではないでしょう。でも、だからこそ、「知らないことを教えて下さい」という姿勢で取り組んでもらうことは、インタビューされる側にとって、心を許すきっかけになるのかもしれません。
「当事者への配慮」という話題から見えてきたのは、その根底にそもそも「人との向き合い方」があるのではないかという、そんなひとつの方向性でした。
HBCで行った意見交換会。そのトークの内容は多方面に渡りましたが、その中でも「自分たちを言い表すのに、どんな表現を使うべきなのか」という話題は、かなりの盛り上がりを見せました。
周囲にバイセクシャルであることを隠していないという、高校生のまるさん。彼は 「LGBT」「LGBTQ」という言葉を「性的マイノリティ」と同義に扱うことに違和感があると言います。
「僕個人の意見としては、それは間違ってると思ってます。別に僕達の生き方って変わらないじゃないですか、ストレートの人と。マイノリティって表現を使うと、のけ者というか、はぶられているというか、異端児のような捉えられ方をしてしまう。シンプルに属性を表す『LGBTQ』という言葉がセクシュアルマイノリティと同じような意味で使われているのは、それは違うだろうと毎回思うんです」
まるさんが生まれたときにはすでに「性的マイノリティ」「LGBT」という言葉が使われていて、彼はその意味や語法について、そういうものだと受け入れてしまったところがあると言います。30代のあたしとしては「とうとうそんな世代が現れたのね……」と驚く気持ちでしたし、「LGBT」という表現についても、実は単なるセクシュアリティの羅列ではなく、政治的なメッセージの発信のためにそれぞれのコミュニティが連帯してきた歴史に紐付いているのだよなぁと、まるさんの言葉を聞きながら思っていたところがあります。ですが、彼の語りには不思議と興味を惹かれるところがありました。
まるさん自身は、近年用いられるようになってきた「SOGI」という言い回しに、可能性を感じているそう。
「SOGIという言葉のほうが今の社会にあっていると思います。ストレートを含む性のあり方全体表すものなので。今保健の授業で中高でもLGBTについて取り扱われるのですが、先輩や先生が『LGBTQ、“そういう人たち”がいます』とその中で言ったりする。“そういう人たち”ってなんだか、 『この教室にはいなくて、でも世の中にはいます』という意味に感じるんだけれど、『マイノリティ』って単語の意味と同じで、何も変わらないただの人間なのに、当事者がのけ者にされていると思う。そういうのを防ぐために、SOGIという言葉が正しく使われるべきだと思うんです」
「性的指向と性自認(Sexual orientation and gender identity)」の頭文字を取って作られた「SOGI」という表現は、人権課題としての性について、多数派も含めたすべての人が身近な出来事として考えられるよう促すものです。
まるさんと同じような問題意識から、その使用を推奨する人を国際的な規模で多く見かけるようになってきました。確かにこの語は「LGBT」などと異なり、性的マイノリティとマジョリティの間に境を設けないのが特徴です。「当事者も非当事者と等しく、ひとりの人間として存在しているんだ」と主張するための足がかりとしては、他の語にない可能性を秘めていると言えるでしょう。
ですが、境を無くすということは、当事者が当事者として事実抱えている問題を見落とすことにもつながりかねません。Eさんはその点を指摘します。
「SOGIという言葉には危うさがあると思います。言いたいことはわかるけど、それって一歩間違えると、シスジェンダーでヘテロセクシャルのマジョリティだろうが、そうでなかろうが、なにもかも含めて『みんなちがってみんないい』になってしまう。
その後に 『だから何もしなくていいよね』『差別しなきゃいいんでしょ』という風になってしまうとしたら怖いし、何も変わらない。
『セクシュアリティはそれぞれ個性』みたいな言葉を使う前に、本当に結婚したい相手と結婚できるようにしてくれと思うし、自分が思う性別になりたいときになぜ健康な臓器をとらないと戸籍を変えられないのかとか、そういう問題を無視したままで、なんとなくハッピーな世界に変えられるのは、とっても恐ろしいと思うんです」
「誰もが同じ人間なんだ」というアプローチではなしえない、「こんなことに私たちは困っているんだ」という、LGBTだからこそ出てくる主張や訴え。そこに目を向けさせる必要があるんだというEさんの言葉は、あたしにも突き刺さるものでした。
近頃、多様性や平等といったコンセプトを絡めた取り組みや報道をよく見かけるようになりましたが、ともすればそれは「多様であればOK」とか「等しければ大丈夫」という、安易な着地点に落ち着きかねません。ですが、もっと真剣に事と向き合うならば、その多様性・平等というフィルターに隠されている問題はないか、そうした概念の裏に今何があるのかを、現実として直視するべきだと言えます。
またEさんは、自身の経験をもとに、性的マイノリティの問題を扱うにあたっては、より実状に沿った、解像度の高い言葉を丁寧に使うべきだとも語ってくれました。彼女が例として挙げたのは、自身が取り組んでいる訴訟の話です。
「同性婚という言葉には、私はすごく排除的なものを感じるんです。『結婚の自由をすべての人に』とか『婚姻の自由』という表現を使ってほしい。
だって、同性婚という表現だと、これって同性を好きになる人のための制度だと思われてしまうけれど、私が求めているのは、この人と結婚するかしないか、自分で選べる権利を性別関係なくくださいってこと。
言葉として長いから、メディアが短く『同性婚』とまとめたくなる気持ちはわかるけれど、多様な当事者の姿、多様な家族のありかたを国や社会が受け入れるきっかけになってほしいというのがそもそもの願い。だからこそ、同性愛者のための制度と思われるような報道の仕方には危惧を感じます」
たくさんの人にとってわかりやすく、かつ「自分事」と思ってもらえる方向性と、当事者にとってのリアルにフォーカスをきちんと当て、それを発信する方向性……報道にあたってそのどちらを重んじるべきか、どうバランスをとるべきか、これは非常に難しい問題でしょう。
メディア側としても、受け取る側としても、そこには様々な考え方があると思います。
しかも、「LGBT」「SOGI」「同性婚」「婚姻の自由」といった語彙のレベルから、どのような場面を取り上げ、どうストーリーを織りなすかといった段階まで、その全てに関わってくる問題であるため、なかなかシンプルに「こうすればいい」という結論が出せるものではありません。
ですが、だからこそこの問題について、その都度再考し何度でも思いを巡らせることが、「取材」という事柄に関わる人間には常に求められるのだろうと思います。そして、その逡巡の先に、社会の変化につながる報道というものが見えてくるのかもしれないと、メディアの発信に携わるひとりの人間として、そんな希望を抱いたりもしています。
今回の意見交換会は、翼斗さんのこんな心に響く言葉で締めくくられました。
「やっぱり、自分がしたようなつらい思いをする人が、ひとりでも少なくなるようにって。
自分は、『同性愛者であることを異常なことだから言っちゃいけない、小さな世界で生きてなきゃいけない』と思っていたし、『人間じゃないのかな』って感じていたこともあるんだよね。
子どもの頃や学生の頃に『男の人が好きってダメなんだ、だから、自分はダメなんだ』と考えていたけれど、そんな風に思ってほしくない。男が好きだろうが女が好きだろうが、 『好きになった人がいる、その事実だけで、そもそも、誰だって生きているだけで素敵!』と思えるような世界になってほしい。
そんな世界にしていこうってなったときに、メディアは大きな力を持っていると思うの」
性的マイノリティの姿を発信することはこれまで、社会だけでなくLGBTコミュニティにも、そして当事者それぞれのこころにも大きな変化をもたらしてきました。
あたし自身、カミングアウトをする前は、パレードの存在を様々な報道で目にするたびに「ずっと孤独だったけれど、もしかして、ゲイって自分だけじゃないのかもしれない」と、その内容に勇気づけられた記憶があります。今回のちかときみの特集も、きっとこれを目にして励まされ、生きていく力を得た人がいるはずです。
そして、そうした発信の積み重ねの上に、「LGBT」「SOGI」といった言葉が広まりつつある今の社会が成り立っています。あたしが幼かった頃――まだ「ゲイ」や「レズビアン」といった語すら目立って取り上げられることがなく、世界に自分みたいな人間はひとりしかいないと思っていた頃――からは、考えることすらできなかった、この社会が。
メディアという力は、単に無反省に働くと、暴力にもなりえます。ですが「何が適切なのか」を常に問い続けることで、世界を変えていく確かな手段として、差別という霧を晴らす一手となりうるのです。
当事者にとって先を照らす灯火となるような報道がこれからもなされ、それによって世界がさらに開かれたものになっていくよう、あたしはひとりの当事者としてこれからも願い続けます。
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※1:クローゼット
……性自認や性的指向を公表していない状態を、衣類をしまっておく「クローゼット」、すなわち押入れの中にいる様子にたとえた表現で、LGBTアクティビズムの歴史では比較的初期から使われています(イヴ・セジウィック(1990)『クローゼットの認識論』を参照)。最近メジャーなのは「着たい服を外に持ち出せないかのように、本来そうありたいセクシュアリティを隠している状態」という、当事者本人のスタンスを表す使用法です。ですがかつては、「クローゼットの中に入る(into the closet)」という表現で、周囲の目を気にせず振る舞えるLGBTコミュニティに加わる、という意味も持っていました。
文:満島てる子
オープンリーゲイの女装子。北海道大学文学研究科修了後、「7丁目のパウダールーム」の店長に。LGBTパレードを主催する「さっぽろレインボープライド」の実行委員を兼任。2021年7月よりWEBマガジン「Sitakke」にて読者参加型のお悩み相談コラム【てる子のお悩み相談ルーム】を連載中。
編集:Sitakke編集部IKU