2025.12.11

食べる

「これはちょっと普通ではない」食べに行くなら今!マニアの間で評判の、人気洋食店の復活カレー

“フォン・ド・ボー カレー”の生みの親

『ごくらく亭』牛山シェフが師事した志度藤雄という料理人。

『ごくらく亭』の本文でも触れたが、同店オーナーシェフの牛山博康さんは、1960年代の下積み時代に東京・銀座で「日本フレンチの草分け」と名高い伝説の料理人・志度藤雄に師事した。

フレンチのシェフでありながら、生涯にわたりカレーにこだわり続けたことでも知られており、牛山さんはその一端を目の前で見ている。

志度が人生でカレーに初めて出会ったのは、叔父が経営していた神戸の西洋レストラン『精養軒』。
大正のはじめ、ここで住み込みで働き始めた志度は同店のフランスカレーの香りに魅了され、2ヶ月間の小遣いを貯めて店のカレーを食べたことが、その後の料理人生に大きな影響を与えた。

日本での修業を終えたあと単身でヨーロッパにわたり、イギリスに4年半、フランスに13年滞在して技術を学んだ。

戦中の1941(昭和16)年、日本政府から声がかかり駐英大使館の料理長として日本に戻り、ときの首相だった吉田茂お抱えの官邸料理人として名を馳せた。

吉田茂(左)と志度藤雄の在りし日の姿。志度には数多くのニックネームやキャッチコピーがあり「吉田茂の料理番」「ムッシュ・シド」「日本フレンチの草分け」「フレンチの先駆者」などと称される。

その頃に彼が生み出したのが、 フォン・ド・ボー カレーだ。
仔牛の骨やスジ、クズ肉などを香ばしく焼いて香味野菜とともに煮出したフレンチの基本のだしを使った彼のカレーは、その後料理業界に大きな影響を与え、有名メーカーのエスビー食品ではいまだにこの『フォン・ド・ボー ディナーカレー』はベストセラーとして売れ続けている。

「厳しい人でしたよ。志度さんがあのカレーをつくったのは、僕が出会うずっと前に働いていたレストランでのことで、そこは日本で初めてレストランでクロワッサンを焼いて提供した店としても知られてて。志度さん、本当はベーカリーもやりたかったみたいだけどね。とにかく洋食の料理人の憧れだったから、志度さんの事務机には常に履歴書が山のように積まれていましたね」(牛山さん)。

志度藤雄の激動の料理人生を綴った自叙伝『一料理人として:神戸・パリ・ロンドン・銀座』(文化出版局 刊・1981年)。

写真/「東かがわ市立三本松小学校 閉校記念誌」より

***
Peeps hakodate vol,142 「秘密のカレー。」より

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