2025.10.31
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なんなんだろうね、あの湧き上がる特有の「申し訳ない気持ち」。
例えば、何かお祝いしてもらったり、ねぎらってもらったりすると。
すんごくハッピーにもなるのに、同時にその裏で、「いや…そんなわたくしめのような下々の者にまで…畏れ多くもこのような格別のご配慮をいただくなどとは…」という感情が、どこからともなく湧き上がってきちゃう。
本人としてもこれ、とても不思議な現象なんです。
なにゆえなんだろう。正確なところはわかんないのよねぇ。
ただここ数年、自分のことを観察してみて「これに起因しているのかな」と思うのが、おのれの自己肯定感というか、自己有用感というかの根本的な薄さ。
自分のことが嫌いだとか、そういうことでは決してないんだけれど(割とすんなり「好き」と言える方な気がする)。
例えば、何かを成し遂げることで周りから感謝される機会があったとしても、「いや僕なんてまだまだ」「こんな未熟者ではいけない」という感覚がこころの芯のところにあったり。
はたまた誰か素敵な人に、万にひとつロマンティックな感情を向けてもらえることがあったとしても、「こんな器量も愛嬌も伴わない人間にどうして」とネガティブな気持ちの発生が、ポジティブな受け止めよりも先行してしまうのよね。
なんだかさ、自分は何も持っていないというか。何者でもないというか。
相手から何かをもらったとして、それに応じられるような対価を持ち合わせていないよなぁって考えちゃうのよ。
良くないよねぇ。
あおたんさんも、そんな傾向あったりしないかしら。
SNS社会であることの余波だなぁと、常日頃感じているのですが。
今は誰しもがみずからの発信によって、「何者か」であるというラベル(「インフルエンサー」とかはその好例)や、自身の市場価値を示す数値(フォロワー数とかね)を得ることが、努力次第で可能です。
そのせいなのか、「何者かでありたい/何者かであらねばならない」という欲望が、世の中に大波と化して渦巻いているように思います。
もっと言えば、「何者でもない/何者にもなれない」という劣等感やコンプレックスが、煽りを受けやすくもなっている気がするんです。
(これ、辟易としちゃうよね。サリンジャー『フラニーとゾーイー』の内容を思い出すなぁ。みんなにおすすめしたい本のひとつよん)
あおたんさんやあたしは、そんな煽りをまともにくらってしまったタイプなのかもしれない。
くうぅ、そう考えると、なんだか悔しいよねぇ。
「誰かに何かを返すことのできる人間でありたい」という欲望自体が、ひるがえって「自分はそんな人間にまだなれていない」という失望を照らし出してしまう。
そのシステムそのものから抜け出すことができたらなぁと、夢想しているあたしなのでした。
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