畠中さんの父、嗣郎さん(82)があの日のことを語ります。
「真っ赤になっている人ばかりだった。やけどで赤いのと赤い消毒液を塗っていた。その記憶だけは鮮明にまだ脳裏から離れません」
息子が広島で慰霊の演奏をすることについては…
「涙が出ましたね。僕ができないから秀幸がやってくれる」
病気で半身まひとなった右側と健常な左側の2つの違う感覚がある畠中さん。
相容れないものどうし対話し、新たな価値をつくりだすことを大切にしています。
しかし「原爆」に関して、相反するものとの対話は成立しないと畠中さんはいいます。
「絶対的な暴力です。許すわけにいかないという感情的なものはある。どうしても広島県人なのであるんです」
「でも、それを感情的にやってしまうと、僕は同じ列に落ちてしまう。だから僕は慰霊演奏という形で、次の世代に伝えないと意味がない。生きた慰霊にならない」
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