2025.03.28
深めるあたしも発達障害というラベルと付き合っていくことになった人間として、あなたの語ってくれている「とても生きにくい」状況には、感じるタイミングや出会う条件の差こそあれど、思い当たる節があるの。
たとえば、不安症状について。
これ、大変だよね。あたしも自身の発達障害の傾向を知ったのは、クリニックで「全般性不安障害」(日常生活のいろんなことに不安や心配を過度に抱いてしまう症状があること)の診断を受けた際のこと。
その頃はすごく顕著にメンタルの揺れがあって、塩焼きそばを食べただけでいろんな悲しみが止まらなくなって泣いてしまう、なんてこともあったりしたわ(なぜか塩焼きそばを食べると必ずだったの。不思議……)。
他にも、おそらく別の人にとっては些細なことが、どうしてもあたしにとっては許せなかったり、辛く受け止めてしまったりで。
感情的な反応って、自分自身でも思うようにコントロールできるものではないから、本当にしんどかったのよねぇ。
「近くの笑い声や視線すら、自分に向けられてるのではないかと思ってしま」うことも、すごく身に覚えがあるの。
以前、社交不安障害について書いたコラムの中に、一部詳しく書いたけれど。
セクシャリティにも関連する個人的な劣等感から、他人の目線を忌避する癖がそもそもあたしにはあるんだ。しかもそれにとどまらず、なんなら相まって。
自分の発達特性(特定のものへのこだわりや、固定の所作の繰り返しなどについて、自覚があったりするのよね)が見えやすいものになっている気がしたときに、それが「周囲の人間の目に変に映っていないか」を、今でもどこかしっかり心配しちゃうんだよね。
「大丈夫かな、やらかしていないかな」「おかしなこと、笑われるようなこと、知らない間にまたやっちゃってんじゃないかな」って、そう考えることがほぼ癖になっちゃってるのよ。
想像するに、全く同じとは言えないだろうけれど。
けろりんさんもきっと、こうしたあたしが経験してきた諸々と、似たような心理状況にあったりするんじゃないかしら。
そりゃ「ポジティブになりたいのに、なかなかなれ」なくても仕方がないよね。
だって、自分としてはただ生きているだけなのにさ。
その生き方がときに足かせになっちゃうかもしれないって、そんなネガティブな可能性と常に睨めっこせざるをえないとなれば、明るい方に目線を向けるなんてなかなかできなくなってしまうもの。辛いわよねぇ。
お手紙からも滲み出てはいるけれど、いろいろ苦労したんじゃないかしら。
けろりんさんの現在のあり方を、自分の種々の経験から慮りつつ。
ここまで書いてきたような発達特性に基づく悩みは、ようやく「見える」化されてきたところがあるものの、まだまだ広く知られているわけではないんだよなぁと、当事者性を抱いている者としてはこの社会の現状を歯痒く思ったりしていたのでした。