2025.03.23
暮らす今回の映画は、もちろんクマについて取り扱ったドキュメンタリーです。
しかし、この作品の中でクマは、単なる主題・被写体というよりも、あるものを映し出す「鏡」としての役割を強く担っているように思います。
では、何がクマを通して描き出されるのか。
「そんな当たり前のことを」と言われてしまうかもしれませんが、その答えは「ヒトビト」のありさまではないかと、私は感じました。特に、集団としての意思決定のあり方、あるいはその困難さには、しっかりとしたスポットライトが当てられています。
私はこの映画を見たとき、最初震えにも近しい感覚を抱かずにはいられませんでした。
スクリーン上に、島牧村というコミュニティのなかで発生している(あるいは、村民自らが発生のメカニズムに関わってしまっている)いびつなディスコミニケーションが、これでもかというほど克明に描き出されていたからです。
もちろん住民の方々の様子について、その負の側面ばかりが描き出されるわけではありません。全編を通して見えてくる、クマについて官民一体となって取り組もうという姿勢と、それが段々と功を奏しひとつのムーブメントになっていく過程には、観客として晴々しいものがありました。
しかしながら、同時並行で浮き彫りになっていく、クマに関する/村の状況に関する各人の情報量の差と、それに基づく閉鎖的なやり取り、あるいはやり取りの拒否。
「クマとの事故を防ぎたい……願うことは同じはずなのに、なぜ人はすれ違うのでしょうか」と、監督みずからがナレーションしているのとまさに同じ疑問が、作品鑑賞の途中、私の頭の中にはでかでかと浮かんでいました。
ちなみに『劇場版 クマと民主主義』が投げかけるこの問いは、クマと島牧村に限るものではないと私は考えています。むしろあらゆる社会課題、あらゆる集団に共通している構造上の問題が、この映画では明らかにされています。
政治上の権力の不均衡、富の再分配にまつわるいざこざ、そしてそれらがもたらす、当事者たちの抱える危機の不可視化など……。
劇中に見出すことのできるこうした要素は、例えばLGBTQについても、今まさに米国で起きているバックラッシュ(揺り戻し)を説明するためには欠かすことのできない観点ばかりでしょう。
他にも、人種差別や言論弾圧といった、今取り沙汰されている様々な事象。それらを紐解いていくために私たちが手にしておくべきパースペクティブをいくつも、この作品の中には見出すことができます。
人間は言葉を介して、互いに意思疎通することができます。
そしてそれにより、個人としてだけでなく集団として、ひとりひとりの意見を汲み取った上で、その行動の方向性を定めることができます。
一種「民主主義」的な手続きが、ヒトビトには常に開かれているはずなのです。
ですが、そのシステムのどこかに不備や、不自然なねじれが起きていた場合、どうなってしまうのか。ヒトビトに一体どんな現実が、それによってもたらされるのか。
今作にはそのひとつの答えを、幾島監督の視点からはもちろん、一種クマという視点からも炙り出していこうという、ひそやかながらも強い意欲が込められているように感じます。
「課題は人間社会にある」という、宣伝用フライヤーに大きく書かれた文言はまさに、この作品が75分で伝えようとしている事柄の真髄を示したものなのではないかと、私はそう思います。
『劇場版 クマと民主主義』。そのラストの約40秒は「クマに見られる」という状況を体験することで締めくくられます。その眼差しに、皆さんは果たして何を感じるのか。
既にこの体験を経ており、たくさん感じるところのあった人間として、ぜひ本作を見た方と思うところを語り合いたいという、そんな欲望を今私は持っています。