ことし、設立70周年を迎えたHBC北海道放送。
カメラがとらえた貴重な映像を交えながら、HBCそして札幌の「放送の歴史」を振り返ります。
案内してくれるのは、和田哲さん。
雑誌O.tone(オトン)の編集デスクを担当し、古い地図から歴史をひも解く連載企画の執筆をしています。
二人がまず訪れたのが、大丸藤井セントラル。
札幌では明治時代から続く老舗文具店ですが、なぜここへ・・・?
こちらは、昭和26年に建てられた当時の「大丸ビル」。
なんと、「北海道放送」と書かれた看板が!
HBCの放送の歴史は、この場所から始まったのです!!
70年前の昭和26年11月30日にHBCはスタート。
4階と5階がHBCのフロアになっていて、ラジオのスタジオがありました。
もちろん、階下には文具店も。
NHKに次いで、民放として初めてのラジオ放送ということもあって道民の間では話題になったそう。
和田さんによると、新聞では「ラジオは一家に2台必要」といった広告がのったり、HBCラジオの周波数の合わせ方まで記事になったりすることもあったんだとか。
そしてラジオ放送が始まってから5年後・・・
昭和31年、民放としては道内初のテレビ放送がスタート!
東京の日本テレビやTBSなどに続き、全国で5番目の開局でした。
この画像は、開局当時、一日の放送の始まりに毎朝流されていたオープニングフィルムのひとコマです。
本社も大丸ビルから現在の北1条西5丁目に移転し、テレビ専用の新しいスタジオでは番組制作が盛んに行われました。
また、当時は前例のなかったウィンタースポーツの中継にも挑戦。
この画像は、HBCが日本で初めて生中継をしたジャンプ大会の様子です。
時代を映す「テレビ放送」を開始したHBC。
しかし、ここに至るまでに、ある大論争が起こっていました。
その舞台となったのが、こちら!
札幌テレビ塔です。
テレビ電波の送信施設として開業し、当初はNHK、のちにSTVも使用していました。
現在はテレビ電波の送信機能はなく、各局は手稲山から電波を発信しています。
この手稲山に、HBCテレビ放送の歴史が深くかかわっているのです。
昭和30年代はじめ、テレビ放送を目前に控えていたNHKとHBC。
2つの放送局は電波の送信所をどこに設置するか、真向から意見が対立していたのです。
NHKは、すでに商業的にも成功し、電波放送の実績もあった名古屋のテレビ塔を例にとり、街中に電波塔を建てる「平地方式」を主張していました。
これは札幌の新しいシンボルにもなると、札幌市もこの意見に賛同します。
対してHBCは、事前調査の結果をもとに、電波がより広い範囲に届く“手稲山”に送信所を設置する「マウンテントップ方式」を推し進めていました。
電波塔をどこに建てるのか、両者の議論がまとまることはありませんでした。
その結果、昭和31年にテレビ塔は完成して、NHKはテレビ塔から電波の送信を開始。
一方、HBCは同じく昭和31年、手稲山の山頂に電波塔を建てるため、単独で未開の山の開発に着手します。
当時の手稲山は人が通れる登山道はあるものの、車が通れるような道はもちろんありません。
テレビ放送開始までの猶予は1年間。
“無謀”ともいわれた送信所の建設工事は一体どのように進められたのでしょうか・・・
現地の様子を見てみようと、手稲山の山頂へ!
現在の手稲山山頂付近にあるHBCの送信所です。
ここから札幌圏のお茶の間に365日休まず放送を流しています。
当時の様子を知る、HBC OBの仙丸 晃さん。
仙丸さんは手稲山開発が始まった昭和31年の4月に入社し、入社してすぐにこのプロジェクトに携わることになったそうです。
当時のお話をお伺いしました。
まずは、車が上がれる道を作らないと工事ははじまらない!と、スタートしたのが、山内の道路整備でした。
手稲の街から山頂までを結ぶ11キロ以上に及ぶ道路整備。
岩盤を爆破するため、ダイナマイトまで使われていたというから驚きです。
4月に始まって以降、1日300人以上の人が作業を急ピッチで進め、8月には車が通れる山道を完成させました。
資材を運べるようになったことで、いよいよ送信所の建設工事に取り掛かかります。
しかし、台風被害などもあり思うように工事が進まず、予定より遅れたまま冬を迎えることになりました。
仙丸さんは、当時のHBC社屋から雪上車にのって、手稲山まで山をあがっていたそう。
こうして1年という短い期間にも関わらず、未開の地だった手稲山の山頂にHBCの送信所が完成。
ラジオに次ぐ新しいメディアが北海道を駆け巡りました。
ブラウン管に映像が映り、それが動くだけで、人々はおどろきの声をあげたそうです。
苦難の末、見事完成したテレビ塔。
しかし手稲送信所の工事が終わっても、仙丸さんたちには各中継局の整備が待っていました。
手稲山整備の経験のおかげで、全道での中継局整備もお手の物だったと振り返る仙丸さん。
仙丸さんたちの苦労のおかげで、いまのテレビ放送がある。
「これからも北海道のためになる放送を続けていきたい」と、決意を新たにする金城アナでした。
※掲載の内容は番組放送時(2021年11月15日)の情報に基づきます。